夜の底を走っているみたいだった。

 ずっと前にも、こんな風に車に乗っていたことがあった気がする。

 街灯のあまりない夜道を月だけが照らしていた。薄ぼんやりと明るい都会の夜とはまるで違う。

 闇の色が濃い。

 怜が運転していたのは、留美子の車だった。免許は大学時代に合宿で取って以来、ろくに運転はしていない。だが幸い対向車もない道だ。何とか走った。

「どうすりゃいいんだよ……」

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。もし留美子が死んではいなかったのだとしたら。救急車を呼ばなかったのは、見殺しにしたということなんじゃないのか。

「なぁ」

 さあっと視界が暗くなる。貧血かと思った。

 思わず怖くなって、ブレーキを踏む。田んぼに突っ込んでしまってはたまらない。

 フロントガラスに白い靄のようなものが見えて、真っ暗闇の原因が自分の目にあるのではないと気付いた。月が隠れたのだ。

 この分では、車を運転するのは危険だった。

「ちっ」

 この辺りでは昔から霧が出るとは聞いていた。だけどこんな風に道の真ん中で、車の中に遭遇したのは初めてだ。

「いったん、エンジン切るか」

 暖房を切ったらきっと寒くなる。だけどこのままここで立ち止まり続けるわけにもいかないさろう。

 エンジンを止めると、一気にあたりが静かになった。フクロウなのか、あまり聞き覚えのない虫の鳴き声がわずかに聞こえる。思わずくしゃみが出た。

「暗いな」

 はっと助手席を見ると、そこにいるのは子供ではなかった。

 薄暗くてほとんど見えないが、背が高い。大人の姿であるのは間違いないようだった。

「お前、時間によってそうなんのか?」

 ハンドルによりかかりながら、怜は暗がりの人影に目をやった。

 もう彼の姿が変わっても、驚かなくはなっていた。

「そうなる?」

「服、大丈夫か?」

 姿が変わる可能性があることはわかっていたから、大き目の上着を着せていた。

 月が隠れると、街灯も近くにはない。ほとんど真っ暗闇だ。

 だけど、彼の目がわずかに光って見えた。濡れたような濃い青色だった。

 きれいだと、こんな時なのに思ってしまう。

 ぞっとするほどあたりは静かだった。暗闇の中に、静かに霧が流れている。夜の底だ。大きな瓶の底にいるような様子を想像してしまう。

「……お前、どこから来たんだ?」

 一人きりでなくてよかった。

 東京で、金がなくなったときには逃げようと思っても、誰もいなかった。助けをもとめられるような相手も。父ももういない。母はもはや他人みたいなものだ。兄なんてもってのほかだし、友人は頼れなかった。

「記憶が……途切れている」

 どうせろくな答えは返ってこないだろうと思っていた。だけど思いのほかはっきりと、彼は答えた。

「マジで?」

 何でもできて、何でも知っているような神秘的な存在に思えていた。初対面であんな風に体に触られて、そもそも冷静に彼を見れなくなっていたこともあったかもしれない。

「お前……人間じゃないんだろ?」

 暗い中だからか、聞きやすかった。

「目が覚めたら、誰もいなかった」

 どこで目が覚めたんだ、と思ったけれど話の腰を折る気がしたので聞けなかった。

「誰も? 仲間がってことか?」

「……当たり前にいる、者たちだ」

「家族とか?」

「家族?」

「ええと……わからない? 父親とか母親とか……まぁ俺もいないんだけど」

 母と兄は去り、父ももういない。そこから親せきに引き取られ、人並みの生活ができるようにはなったがいつも肩身は狭かった。

 ひとりで生きられるようになりたかった。金があれば、それがかなう。もっと大金を稼いでやろう、と仲間とともに話をするのも楽しかった。初めて仲間になれた気がしたのだ。

 ……どうしてこんなことになったのだろう。

「お前が寝てる間に、死んだのかな」

 留美子は何と言っていただろう。象徴だとか、悪いことが起こるとか……よく思い出せない。洪水がどうとか。ヤマタノオロチの首は八つに分かれている。それはたぶん、川だ。枝分かれし、そして時に荒れ狂い里を襲う川。

「お前……どのくらい生きてるんだ?」

 そもそも、生きている存在なのかもわからなかったが、怜は尋ねた。

「何か覚えてる、昔のことはあるか?」

 この辺りに川はない。だけど、上流にはだいぶ古いダムがある。山の方の村がひとつ沈んだと、昔聞いたことがあるような気がする。

「……暗い」

「暗い?」

「暗いところに、じっと、眠っていた」

 よくわからないけれど、たぶん人里ではないだろう。

「次第に光が増えてきて……まぶしくて、目を閉じていた。気が付くともう、誰もいなかった」

「お前のような、同じような存在が昔はいた?」

 もし彼が神のような存在なら、親がいるのだろうか。聞きかじったギリシャ神話か何かだと、家族もたくさん出てくる。日本の神話のことはよく知らないが、似たようなものなのかもしれない。

「ああ」

 彼の低い声は、しんと響いた。

「今は、いない?」

「ああ」

 視界は相変わらず闇に覆われている。ゆっくりと、ほとんど止まっているような速度で霧が流れていた。

 寒気が足元から這い上ってくる。

「どのくらい……?」

 今がいつで、ここがどこなのかわからなくなりそうになる。

 ずっと昔の暗い風景というのも、こんな風だったのだろうか。月は隠れたまま、光は見えなかった。電気が発明される前。明かりのない太古の夜。

「わからない」

 でもたぶん、ずっと長い間だ。

「……っ」

 寒さがこらえきれなくなってきて、怜はくしゃみをする。くしゅん、くしゅんと二度続いた。さすがに寒いから、エンジンをかけた方がいいかもしれない。

 そう思いかけた時、ぐいと腕を引かれた。

「うわっ」

 助手席に座る彼のもとに、引き寄せられる。

「おい、何すんだよ」

「寒いだろう」

「まぁ、そうだけど……」

 どう考えても、彼は普通の人間じゃない。だけど彼の体は、暖かかった。

 心臓が、脈打っているのを感じる。男に寄り添うような、こんな体勢は恥ずかしい。そう思うのに、振り払えなかった。

 寒いからだ。自分自身にそう言い訳する。暖房代わりになるから、触れているだけ。どうせ暗闇だから、誰に見えるわけでもない。

 彼には以前にも、塔の中で触れられたことがある。でも、あれは出会い頭の事故みたいなものだった。

 怜は金の絡むセックスをしたことはあっても、ここ最近ちゃんとした恋人はいなかった。たぶん、誰にも助けてもらえなかったのは、怜自身が誰も信じてこなかったことの結果だ。

 友人たちと一緒に稼ぐのは楽しかったけれど、どこかで相手を利用できないか、考えてしまっていた。実際、より良い条件があれば乗り換えることに躊躇はしなかった。

 そうしないと、生きていけないと思ったからだ。金がなくて母は出ていった。もし、誰か好きになっても、金がなかったら意味がない。好きになってもらえない。

 人じゃないかもしれなくても、ナダは暖かい。ならもうそれだけでいいような気もしてくる。

 よくわからないし、何も解決はしていないはずなのに。

 抱きしめられていると、落ち着く。彼はそもそも、金だの事業だのとは無縁のところにいる。だから、怜のことを欺くこともない。

「あれだけが、呼んでいた」

「あれ?」

 うおんとうめくような音が聞こえた。

 さあっと光が走る。一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。

 真っ暗の中に走ったそれは、天からの光みたいだった。だが違う。もっと低いところからその光は発されている。

「塔……?」

 留美子の家からもずいぶん走ったし、距離はかなり離れているはずだった。だけどはっきりと、あの塔から走る光が見えた。斜めにまっすぐ地面を照らすように走った光は、どこかで見たものに似ているようでもあった。

「灯台……?」

 ここは陸だ。普通ならば海辺にあるべきものだろう。

 まばたきをしている間に、その光は消えた。眩しすぎて、かえってまた闇が暗く感じる。

「何だ、今の……」

 思わず怜は、ナダの服を掴んでいた。

 あの塔はぼろぼろだった。今は使われていないし、もし灯台のような設備があったのだとして、それが使い物になるとは思えない。

「今の……見えたか?」

 ナダはまるで動揺しているようには見えなかった。

 むしろ、嬉しそうだった。

「あの光だけを目指してきた」

「どこ、から……?」

 怜は今自分が見た光景が、信じられなくなってくる。もしかしたら幻覚だったのかもしれない。あるいは、ナダの見た過去の映像なのか。

「深く……ずっと遠くから」

 たぶん、正確なことなんて彼に聞いてもわからないのだろう。人とは違うのだ。

 だけど、彼の心臓は脈打っている。生きている。それだけは確かだ。

「留美子に聞けたら、もっと詳しいことがわかったかもしれないけど。……お前、最後の一人なのかもな」

 今は姿を表わすことができないだけなのかもしれない。わからなかったけれど、直感的にそう口にした。

「最後ではない。あれがあるから」

「何言ってんだ?」

 さっきから彼が言っている「あれ」はたぶん塔のことだ。そもそもあれが、簡単に壊れてくれていたら怜がこんなに苦労することもなかった。

 土地を売ることができて、借金取りにも苦労しなくてすんだ。

 あれがすべての元凶だ。

「あれは壊す」

 ぴくりとナダが反応するのがわかった。

「壊す……?」

「俺の土地だ」

 さっきの光はきっと幻だ。あんなオンボロの塔、とにかく早く壊してしまうに越したことはない。

「……っ」

 急にナダの手がぐいと怜の首を掴んだ。

 信じられないくらい腕力が強い。やっぱり人ではないからなのだろうか。

 その手が、怜の首を締めていた。

「何すんだよ……っ!」

「そのつもりなら、生きて返さない」

「あれはただの塔だ……! お前の仲間じゃない!」

 暗く背の高いシルエットが、ナダには仲間のように見えたのだろうか。人の姿以外があるのかどうかもわからないから何とも言えない。

 だけど、どんな誤解があるのだとしても間違いだ。

「私はあれと結婚する」

「ふはっ」

 首を締められているところだというのに、怜は思わず吹き出していた。

 一瞬、力が弱くなって息がしやすくなる。これ以上彼を刺激しないほうがいい。頭ではわかっていたけれど、言わずにはいられなかった。

「あんなの、ただの石だのを積んだだけのもんだ」

 テレビで昔、石の像に恋した男の話を見たことがある。自分で作った美しい肖像の女に、恋をしてしまうのだ。

 奇跡的に神様が魔法で生命を与えて、ハッピーエンドになる。

「それとも、魔法でも使えんのかよ」

 だけどこの世に神様はいない。たぶん。

「魔法……?」

「命を吹き込めるのか?」

 ナダには話が通じていないみたいだった。イライラする。

「命だよ……!」

 ダメだ。その言葉の意味もわかっていないようなやつに、そんな魔法が使えるわけがない。

 ナダは本気で、わかっていない。

 それが彼にとっての本当に幸せならいい。だが、身動きをすることもなく、結婚の承諾の返事すら返すことのない塔のそばにいて、それが彼の幸せなのか。

 たった一人で目を覚まして、遠くから来たと言った。

 それはどのくらいの距離だろう。

 どのくらいの時間だったのだろう。

 怜は堪え性のないタイプだ。今まで学校の授業でも、落ち着いて聞いていられなくてよく注意された。ずっと遠くから、果てしなく長い時間をかけて。それは、想像するだけで恐ろしかった。

 それがもし、彼にとって大事な片思いなのだとしても、それは錯覚だ。

「そんなことするくらいなら、俺と結婚したらいい」

 苛立ちのあまり、大して深く考えもせずに、怜は口にしていた。

 ふいにクラクションの音が響いた。

 いつの間にか、背後から別の車が迫ってきていたらしい。フロントライトに照らされるまで、気づかなかった。

「この暗い中で運転してるやついんのかよ……いかれてるだろ」

 怜は慌てて運転席に戻る。そうしてエンジンをかけようとした。だけど焦っているせいか、なかなかかからない。

 相変わらず月は隠れたままで、辺りは暗い。

「くそっ」

 背後の車の運転手は、外へ出てきたらしかった。一体どんな因縁をつけられるのか。

 怜はやむを得ず、エンジンをかけるのをあきらめてドアを開ける。

 そのときやっと、雲が晴れて月があたりを照らした。

 男を見上げたまま、怜は運転席から立ち上がることができなかった。 

「れーいちゃん」

 逆光になった月明かりの下でも、男が誰だかははっきりとわかった。

 ぞっとした。

 確かにこいつはいかれている。知っている。

「なんか、勝手に土地売ろうとしてるらしいじゃん」

 離婚をすれば、夫婦は他人だ。離婚で話し合いをすることはあっても、死後の相続に妻は関われない。

 だが、子供は別だ。

「俺にも権利、あるよね?」

 十年ぶりに見る兄は、月明かりの下で嘘くさい笑みを浮かべていた。