北海道に来る直前、大学の最寄り駅でたまたま元彼女と会った。和とキスをしているところを見かけたまま、音信不通になった彼女だ。結局、ろくに別れ話もしないままだった。俺は気づかなかったふりで通り過ぎようとした。

 

「八木沢君」

 

 でも、彼女は向こうから近づいてきた。気まずくないのだろうかと思ったが、すぐに謝られた。

 

「ごめんなさい」

 

 彼女は言い訳ひとつせず、頭を下げた。変わらない長髪が揺れる。

 

「いや……」

 

 俺も今更怒るに怒れず、どうしていいかわからなかった。彼女と和が一緒にいるところを見かけたのが、はるか昔のことのように思える。

 

「久しぶり」

「あ、うん」

「私……何だか、あのとき変で。ちゃんと説明とか、話もしないままで……あの、ごめんなさい。ずっと、気になってたのに連絡できなくて……」

 

 苛立つ気持ちもあったが、彼女の言うことはわかる気がした。

 

「いや、いいよ」

 

 改めて彼女を前にしても、不思議と苛立ちも焦りもなかった。

 前山と食事をしたときだってそうだ。俺は理性を失わず、冷静でいられた。彼女が和と一緒にいるところを見たときは、あんなにショックだったのに。

 

「もしよかったら、少しどこかで、座って話さない?」

 

 困ったように彼女は笑う。さすがにどういうつもりかと思ったが、気まずい思いを払拭したいのかもしれない。

 でも、彼女とこれ以上話すことなんてないと思った。彼女も俺を裏切ったけれど、俺だって、最初から彼女自身を見てなんていなかった。

 

 ――いつか俺自身を見てくれる人がきっと現れる。

 

 でも俺はどれだけ、相手を見ていただろう。

 「彼女」が欲しかっただけだ。彼女自身がどういう人で、何を好きで何を思っていたのかなんてわかっていない。裏切られたときはショックだったけれど、最近はもう思い出しもしていなかった。

 

「ごめん、ちょっと用事あるから」

 

 俺は近くにいたのに、和のことを驚くほど知らない。いや、彼女についてよりは、少しは知っていると思う。でもそれも錯覚かもしれない。

 彼が専門学校に通っていること自体は知っていても、何を思って何の勉強をしているのか、何を作っているのか、何も知らなかった。知ろうとしてこなかったからだ。

 

「そっか、じゃあ……」

「うん、じゃあ」

 

 今思えば、和は俺の彼女を取るにしたって、もっとうまくやれたんじゃないかという気がする。俺にキスしたり、触ってきたのだって、もっと強引に先まで進めることもできた。

 いつか出ていくことをわかっていたかのように、和の荷物は少なかった。

 母は家族だけは残ると言った。でも、和はもう実家を出たし、戻ることはないだろう。確かに母は、俺のようには和の成績に口を出したりしない。でも、だからといって愛情がないわけじゃないはずなのに。

 どこかでずっと、和は線を引いていた。

 いつだってすぐに、一人に戻ることがわかっているかのように。

 

 ・

 

 家の中は、まるで時間が止まったみたいだった。雨戸やカーテンが閉まっているので薄暗い。スイッチを押したが電気もつかなかった。

 俺が入ったドアは、キッチンの裏口だった。

 ほんの少し前まで誰かがいたかのようだった。シリアルの袋と食器、スプーンが置かれ、シンクにはまだ洗っていない食器が残っている。だがそのすべてに分厚い埃が積もっていた。

 

「和!」

 

 俺は携帯のライトであたりを照らした。床に積もった埃は踏んだ跡がある。侵入してきた外部の人のものかもしれないが、大きな靴跡は和のものに似ている気がした。

 

「おい、和! どこにいるんだよ!」

 

 家の中はしんと静まり返っている。やっぱり見当違いだったのだろうか。

 キッチンのとなりにあるリビングも、時間が止まったみたいだった。

 灰皿やマグカップなどがテーブルの上に置かれている。ほんの少し前までそのソファに誰か座っていたかのように。

 事件があったのは十年以上前のことだ。だが、誰も片付けなかったらしい。そのマグカップを使っていたのは、和の父か母だろうか。

 

「和!」

 

 ここで十数年前、殺人事件があった。改めてそれを思うと寒気がする。

 はじめ、現場は異様な状況として報道された。夫婦はそれぞれ別の部屋で殺され、身体には別の刃物が残っていた。犯人は二十四時間以上家の中にいたようで、冷蔵庫を物色した形跡もあった。

 

「なんだこれ……」

 

 リビングの隣はやたらと広い、がらんとした部屋だった。アトリエのようだ。

 奇妙な形の岩のようなものが、ぽつぽつと散らばっている。和の父親はアーティストで、彫刻を作っていたらしい。だがもし価値のある作品なら、こんなところに放置されてはいないだろう。

 一応一通り見たが和の姿はない。

 俺は廊下に戻り、階段を見上げる。

 夫婦は殺されたが、一人息子はクローゼットの中から見つかった。何を聞いてもろくに答えない、人形のような反応だったという。わずかに答えたのは、男からずっと隠れていたということだった。

 階段はぎしりと軋んだ。携帯の明かりだけが頼りだった。

 なぜ息子だけ殺されなかったのか。本当に、犯人は二十四時間以上もこの家の中にいて、クローゼットに隠れている子供を見つけられなかったのだろうか。その間、隠れていた子供は食事や排せつをどうしていたというのか。

 少し考えれば疑問はいくつも浮かぶ。

 俺はいつの間にか、階段を上りながら息を殺していた。

 

〝みんな、知ってた。最初から……知ってたんです〟

 

 過熱化しかけた報道はすぐに落ち着いた。犯人の詳細も不明なまま、驚くほど続報は出なかった。後にはただ、「異様な殺人事件があった」という情報だけが残され、噂には尾ひれがついた。

 

〝そいつが、父さんと母さんを殺して、ずっと家の中にいて〟

 

 階段を上った先に、小さな部屋があった。青いベッドカバーのかけられたベッドは、今の和では足がはみ出すだろう。子供部屋だった。

 二段ベッドを無理やりいれた、俺の実家の部屋なんかより、ずいぶん広い。その隅に、クローゼットがあった。埃は踏みしめられ、足跡がその前にまで続いていた。

 俺は、和のことがずっと鬱陶しかった。

 どうして彼を無視して帰らないのだろう。わざわざ俺がするようなことだろうか。わからない。

 何回考えても、わからなかった。もし時間を戻せたとしても、俺は高校生の時に風邪を引いた和を助けたりしないと思う。それは、俺にはできない。悔しかったことも、妬ましかったことも、消えずに全部覚えている。俺達は仲のいい兄弟になんてきっと一生なれない。

 

「……」

 

 幼い和は嘘をついた。母親をかばうために。

 死後についた傷か、そうでないかくらい警察はすぐにわかる。父親を殺したのは母親だった。そして彼女は、自殺した。

 誰かが彼女の死後、その手から凶器であった包丁を奪い、再び父親に刺したのだ。そして、彼女の体には別の調理用ナイフを刺した。

 外部から侵入の形跡はなかった。

 

「和」

 

 和は罪に問われることはなく、保護された。彼の嘘については、将来を考慮して詳細は報道されなかった。

 クローゼットの扉を開けると、和はまるでそこに埋葬されているように膝を抱えてじっと動かなかった。

 服が何着もかかっているが、それよりも和の図体が大きいので、全然隠れられていない。

 

「見つけた」

 

俺は何と言っていいかわからず、それだけ口にする。

 和はぴくりとも動かなかった。もしかして本当に、死んでいるのだろうか。ひゅっと心臓が縮むような気がする。俺は彼の体を揺さぶる。

 

「……誰?」

 

 よりによって、和が口にしたのはそんな言葉だった。

 

 

 

 

 

 それはもともと、目新しくもない事件のはずだった。心中した夫婦と、その生き残りの息子。でも、幼い和が家の中に残って偽装工作をしたことで現場は混乱した。

 

「おい、ふざけんな」

 

 俺は強引に和の体を狭い場所から引きずりだそうとする。抵抗する和ともみあいになり、そのまま二人で絡まりあうようにして床に倒れた。

 和は嫌な感じの咳をした。一体いつからここにいるのか、彼の体は冷え切っていた。

 

「誰じゃねぇよ、わかってんだろ」

「知らない」

 

 和のここまで機嫌が悪そうな声を、俺は初めて聞いた。そういえば、和が母に逆らうところだって見たことがない。

 

「兄弟じゃないんだろ?」

 

 和は鼻で笑って言った。

 腕を掴んでその体を起こそうとすると、無理やり振り払われた。

 

「いい加減にしろ。ここまで来させといて」

「頼んでない」

「お前な……」

 

 外はじきに日が沈むだろう。そうしたら電気の来ていないこの家は今以上に完全に真っ暗になるはずだ。

 

「とりあえず、町の方に戻ろう。暗くなったらやばいだろ」

「勝手にすればいいだろ」

「お前、何言ってんだよ」

 

 家の中は夏なのに寒い。和の体調もよくなさそうに見える。

 

「何しに来たんだよ」

「しょうがないだろ」

「何が?」

「何がって……」

 

 確かになぜ俺は、何をしにここに来たのか。母にはまだ何も話していないから、頼まれたというわけでもない。なら何がしょうがないというのか。

 

「お前が……」

 

 和はじっと俺を見ている。毎朝毎晩、嫌でも見てきた顔だ。和がもっと平凡で俺に似ていたのなら、仲良くできたのかもしれない。特別に、人と比べて優れているところなんてない少年だったなら。

 勉強を教えたり、たまに喧嘩をしたり、どこにでもいる兄弟みたいにできたのかもしれない。

 

「お前がまた、うなされてるんじゃないかと思って」

 

 俺はかろうじてそれだけ口にする。

 家の中は静かで、外の音もほとんど聞こえない。ただどこからか隙間風が吹いてきていて、肌寒かった。

 

「……お前こそ、ここで何してんだよ」

 

 しんと静寂があたりを覆う。じっと黙っていると、自分たちがどこにいるのかもよくわからなくなる。

 

「流氷、あるかなって」

「あるわけないだろ、こんな真夏に」

 

 冬の、それも一時期にしかやってこない流氷が夏に現れるわけがない。

 

「冬だったらこんなとこ、電気もなくて死んでるだろ、今頃、お前」

 

 自分で口にしておいてぞっとした。俺だって真冬だったらここまでたどり着けなかっただろう。

 

「……死んでればよかった?」

 

 和は笑ったかと思ったら咳き込む。ここは寒すぎるのだろう。

 俺はすぐには答えられなかった。

 

「兄さん……じゃないか。何て呼べばいいんだろ、わかんないな」

 

 俺の携帯のライトは消えていて、家の中は薄暗かった。目の前の和を見るのがやっとだ。

 はは、と急に和が笑った。

 

「『イエスかノーで答えろ』って言われたんだよ、あの人に。ここでさ」

 

 急に和はそう言った。何が、と聞こうとして俺はできなかった。

 

「死にたいか死にたくないか、どっち、って」 

「和」

 

 和は俺の両親のことを「父さん」「母さん」と呼ぶ。俺は、彼が実の父親を呼ぶところを聞いたことがない。

 母親は、「あの人」だ。

 

「目が覚めたら全部終わってた」

 

 俺はその光景を、自分で見たかのように知っている気がする。誰に詳しく聞いたというわけでもないのに。

 たったひとり、子供がクローゼットから出てくる。

 そうすると、両親はもう冷たくなっている。彼は自分が一人だけ、置いて行かれたことを知る。そのときもたぶん、流氷が鳴っていた。

 どうしていいかわからず、薄暗い中で俺は怖くなって、手を伸ばした。触れた和の手は冷たかった。

 

「ここで大人になるまで育ってたらどうだったんだろ」

 

 俺も繰り返し考えた。もし和が家に来なかったなら。

 子供部屋は自分だけの空間で、お年玉も何もかも、俺だけのものだった。比べられることもなく、自分ひとりだけが特別なのだと思い続けられた。

 和は殺人を犯したわけではない。でも、両親の死体に刃物を刺した彼を引き取りたがる親戚はいなかった。うんと遠縁のうちに来るまで、和はいろいろな家をたらい回しにされていたらしい。

 その頃俺は和のことなど何も知らず、毎日幼稚園に通っていた。遠い北の地域で起きた殺人事件のことなんて、たぶん耳にしたこともなかった。

 

「きっと、お前とは会っても喧嘩もしないな」

 

 もし兄弟じゃなかったなら、俺は町で和とすれ違っても、学校で会っても、何も感じなかっただろう。

 今、和に感じるようなことは何も。

 また和が咳き込んだ。ぜぇぜぇいう、嫌な感じの咳だった。

 

「和?」

「……っ」

 

 異様に和の手は冷たいのに、触った額は熱かった。

 

「おい、早く戻るぞ」

 

 こんなところにいたらきっと更に悪化するだろう。

 

「いいよ、俺は」

 

 和の冷たい声にはっとした。中学三年の時、まるで何ヶ月も遅れて和の風邪がうつったかのように、俺は本命の試験で高熱を出した。

 

「ここに置いてって。そもそも、八木沢和なんていなかったんだよ」

 

 あのころ、何もかも和のせいだと思っていた。モテないことも、母に叱られることも、勉強の調子が悪い時も、全部全部和のせいだと。

 学校の誰に勉強で順位を抜かれることがあっても、そいつのことを殺したいなんて夢にも思わなかった。

 ただ和だけが俺の心をかき乱した。俺よりずっと端正な顔立ちの、この忌々しい男だけが俺の感情を波立たせ、決して冷静ではいさせなかった。

 

「俺のこと嫌いでいいよ。……でも俺は、好きだよ」

 

 誰からも好かれる、和の完ぺきな笑顔だけが、俺の心をいつも乱した。

 

「弟が兄さんのこと好きっていうのもたぶん、普通のことなんじゃないかな。……違う?」

 

 和は子供のような声でぽつりと言った。

 彼の両親はもういないし、彼のことを気にかける親類もいない。うちの両親は彼がいなくなった事を知らない。和はここに、いつまでいるつもりだったのだろう。

 

「それは……」

 

 ふっと和の手から力が抜ける。あとは苦しそうに息をするばかりだった。今まで見たことがないくらい、和はぐったりしていて、揺さぶっても反応がない。

 

「いや、待てって、おい」

 

 血の気が引いた。こんなところで倒れられても、俺にはどうにもできない。何度も揺さぶっても、彼は荒い息をするばかりで何も答えなかった。

 

「くそっ」

 

 俺は慌てて携帯を取り出した。充電はまだ残っていると思っていた。だが、残り3%になっている。ライトとして使いすぎたようだった。

 

「嘘だろ……」

 

 タクシーを呼べばいいのか。それとも救急車か。

 慌ててタクシー会社のHPを開いているうちに、充電は1%になり、通話画面を開いたがすぐに真っ暗になった。

 

「待て……っ」

 

 うんともすんともいわない。俺は慌てて、和のポケットをさぐった。携帯ぐらい持っているはずだ。だけどズボンのポケットには何も入っていない。

 

「おい、和! お前の携帯どこだ」

 

 和は苦しそうな息を漏らすばかりで答えない。一体いつからこの寒い家の中にいたのだろう。

 

「和!」

 

 周囲はいつの間にか真っ暗になっていて、何も見えない。

 ここまで歩いてくるのに、町からは三十分ほどだっただろうか。途中でタクシーなんて走っているとも思えない、人通りのない道だった。

 この家の電気は使えないし、電話だって繋がるわけがない。全世界から取り残されているような気がした。

 

「冗談じゃない……」

 

 もしかしたら本当に、このまま和は死ぬのかもしれない。

 俺は、それを望んでいたんじゃなかったか。

 そして和もそのためにここに来たんじゃないか。だからずっと一人で、幼い頃のようにこの家で隠れていた。幼い彼は両親が死んでからもどこにも通報せず、家の中に閉じこもり続けた。

 

 ――いや違う。待っていたはずだ。和はここで、俺を。

 

 迎え来るとしたら元から俺だけだ。わかっていたはずだ。

 

「和」

 

 俺はぼんやりと、彼の身体を揺すり続けた。でも、和は何も言わない。迷惑なことばかり好き勝手わめいていた口は少し開いて、苦しそうに荒い息をしている。

 

「バカ野郎……」

 

 俺は必死に冷静さを保とうとする。もしここで和が死んだとしても、俺が殺したんじゃない。和が自分でそれを選んだのだ。

 それが和の選択なんだったらいいじゃないか。

 もう彼に心を乱されることもない。好きな女の子を取られることもない。もう怯えないで済む。比べられないで済む。誰からも好かれて、俺よりもずっと容貌のいい弟のことを意識し続けたりしなくていい。

 部屋は俺一人のものになる。

 両親も少しは落ち込むかもしれないが、きっとそのうちに忘れる。

 最初からいなかったのと同じことになる。

 

「くそっ」

 

 好きとか嫌いとか死んでほしいとか、そんな単純なことじゃない。そんな風にきれいに割り切って終われるくらいならとっくにそうしている。

 

「おい、和! 降りるぞ」

 

 俺は和の体を担ぐようにして、何とか暗闇の中を探るようにしながら階段を一歩一歩降りていく。膝ががくがくとして、今にも転げ落ちてしまいそうに感じた。

 和の体は重く、身長も俺より高い。

 

「……っ」

 

 何とかそのまま、和を引きずるようにして玄関までたどり着く。

 だがドアを開けると、外もまたぞっとするほどの暗闇だった。道路には街灯がついているが、それもぽつんぽつんとで間隔が広い。

 

「おい、和……」

 

 答える声はなかった。

 和を一度置いて、それから人を呼びに行った方が早いかもしれない。だけどどうしてもここに和を一人で置いていく気にはなれなかった。

 何とか引きずってくることはできた。ちゃんとおぶれば、少しくらいは歩けそうな気がする。腕をつかみ、彼の体を背負おうとする。でも、自分よりも背の高い男を背負うのは骨が折れた。

 

 ――どうにか合法的に弟を殺せないだろうか。

 ――兄さん、お願い。

 

 俺は何をしているのだろう。もっと何とかうまくできるんじゃないか。方法はないのか。わからない。

 

「お前、なんでこんな重いんだよ……っ」

 

 俺は大きな荷物のような彼を抱えて、よろよろと歩いた。何かにつかまろうにも、だだっぴろい空地ばかりが広がっていてできない。

 町までいかなくても、車か民家を見つければいい。それほど遠くじゃないはずだ。そう思って自分を急き立てる。一歩踏み出すのも足が痛む。脱力した和の体は重い。俺の耳元で、和は荒い息をしていた。ひゅうひゅういう息の音が聞こえる。

 

「……くそっ」

 

 振り仰いだ空には、今まで見たことがないほどの星が輝いていた。ぞっとするほどの数だった。きれいだと思うより先に、あまりに果てがなくて恐ろしかった。

 少しずつコツがつかめてきて、何とか歩けるようになったと思ったとたんに転んだ。和の体が投げ出される。

 

「……っ」

 

 ひどく怖かった。どこもかしこも茫漠と広くて、自分がひどくちっぽけに感じられる。

 和が死ぬかもしれない。

 ――それは、だめだ。

 とにかく、だめだ。

 俺は和の身体を担ぎ直して、道路をしばらく歩いた。重いのは和が意識を失っているせいもあるのだろう。

 少し進むと、いくつか人家が見えてきた。明かりがついているから、たぶん人がいる。

 夜にいきなり知らない男が訪ねてきたら、驚くだろう。顔を出してもくれないかもしれない。だが、町までこのまま歩いて行くほどの体力は俺にはない。とにかく早く和を病院に連れて行ける可能性があるなら、やってみるしかなかった。

 一番道路沿いに近い、一軒の家に俺は近づく。だがチャイムが見当たらない。

 仕方なく、俺はドアを叩いた。

 

「夜分にすみません……!」

 

 明かりはついているのにあたりはしんとしていて、誰かが出てくる気配はない。

 

「急病なんです、お願いします」

 

 俺は何度もドアを叩いた。必死だった。

 もし俺が住人だったら、こんなやっかいな客は嫌かもしれない。でも、どうか親切な人であってくれと願った。

 

「電話を貸してくれるだけでもいいんです……! お願いします」

「そんなにうるさくしなくても聞こえてるよ」

 

 ドアを開けた老人が、俺の顔を見て驚いたような顔をする。その時初めて、俺は自分が泣いていることに気づいた。

 

「お、弟の……具合が悪くて」

 

 うまくしゃべれなかった。ちゃんと立っていないとと思うのに、その場に崩れてしまいそうになる。

 

「あーあー、大丈夫だから」

 

 あまりに俺が動揺しているのでかわいそうに思ったのか、不機嫌そうだった老人の態度がやわらかくなる。

 もし本当に、和が死んでしまったらどうしたらいいのだろう。

 彼の死を願ったことだってある。そのときの俺の気持ちだって嘘じゃない。鬱陶しいとも思う。いっそいなくなってくれとも思う。俺よりずっと顔立ちがよくて、人と知り合うのがうまくて、誰からも好かれる和。俺の邪魔ばかりする、面倒くさくて、厄介な男。

 

 ――誰に似たのかな。兄さんならいいな。

 ――……でも俺は、好きだよ。

 

 他に何を失ったっていい。でも、これだけはだめだ。目からぼろぼろ涙がこぼれていた。人のことを兄じゃない呼ばわりして、そのまま逝くなんて許さない。

 

 〝普通のことなんじゃないかな〟

 

 普通であるわけないだろ、と言ってやりたい。普通じゃない。でも俺もそうだ。優しくできなかった。だけど、どれだけ歪でも確かなこともある。

 たったひとつだけ確かなこと。

 

「お願いします……。たった一人の、俺の、弟なんです、お願いします」

 

 

 

 

 

 ・

 

 

   和の付き添いとして、病院でうつらうつらしているときに夢を見た。

 船が進んでいく。がりがりと音がするのは、どうやら氷を砕いて進んでいるらしい。あたりは一面、流氷に覆われていた。

 きいきいと、変わった楽器か動物の鳴き声のような音がしている。流氷が鳴っている。

 船はどこまでもまっすぐに進んでいた。氷は割られ、船に道を明けていく。ふっと視点が変わり、その船を自分は丘から見下ろしていた。

 

〝ほら、船が進んでく〟

〝ほんとだ〟

〝ママ、やっぱり体調悪いみたいだな〟

 

 誰だろう。聞いたことのある声のような気もするし、知らない人のようでもある。

 

〝なぁ……弟がいたら、嬉しいか?〟

〝え?〟

〝こんなとこに一人でいるより、遊び相手がいた方がいいだろ〟

 

 男はタバコを吸っていた。癖の強い、甘い匂いが広がる。

 

〝ううん〟

 

 なぜ自分がそう答えたのかはわかった。母親にこれ以上負担をかけたくなかったからだ。確かに、遊んでくれる相手がいたらいいなとは思う。でも、そのせいで今もベッドに伏せっている母が苦しむなら、一人のままでいい。

 

〝パパとママがいればいいよ〟

 

 男が笑った。その笑顔は、俺のよく知っている誰かに似ていた。

 流氷が軋み、音を立てる。船はどこまでも氷を砕いて進む。

 朝だった。まだ低い場所から、太陽がまぶしく地上を照らしている。

 

 

 

 

「……あれ?」

 

 和が目を覚ましたのは、明け方近くになってのことだった。俺は疲れ切っているはずなのに、ほとんど眠れていなかった。

 

「ここ、どこ?」

 

 和の声は少しかれていた。必死に俺が運んでやったことなんてたぶん気づいてもいないのだろう。でも別によかった。

 医師は疲労と冷えが重なって気道の炎症を起こしているのだろうと言っていた。栄養失調気味でもあるとのことで、点滴をしてもらったが大事はないらしい。

 

「お前、ちゃんとメシ食ってなかったのか」

「いや……食べたと思うけど」

「いい年して何言ってんだ。いいから、帰ったらまたカレー作れ。わかったな」

 

 ぼんやりとした目で和は俺を見返してくる。部屋の中は明かりを付けていないので暗く、わずかに白いカーテンの向こうから早朝の日差しが差し込んで来ている。

 

「……うん」

「それに」

 

 言ってやりたいことが山ほどあった。俺がどういうつもりでわざわざ北海道まで来たのかわかってるのかとか。和を担いでいたときどういう気持ちだったのか。どれだけ重かったか。一人で夜空を見たとき、どれだけ絶望的な気持ちになったか。

 

「それに……」

 

 でも、うまく言葉にならなかった。

 

「弟は兄より先に死んじゃだめなんだよ」

 

 和が目を覚ましてよかったと思うのと同時に、これまでの緊張がどっと溢れて身体が弛緩する。

 俺はずっと掴んでいた和の手を、もう一度握りなおす。

 

「普通、そういうことになってるんだ、わかったか」

 

 泣きそうになるのをなんとかこらえた。昨日の夜、電話を貸してくれた老人の前で泣きじゃくってしまい、慰められて恥ずかしかった。和の前ではあんな風に泣きたくない。

 

「だから、帰るぞ」

「……うん」

 

 和はぽつりと言った。もういつも通りの和のように見えた。

 

「キスしていい?」

「バカか」

 

 こんなときにまで何を言っているのか。俺は思わず笑ってしまう。冗談だと思ったのに、意外なほど強い力に、ぐいと身体を引かれる。抵抗するだけの力もなく、俺はされるままになるしかなかった。

 触れた唇はひんやりとしていた。でもすぐに暖かくなった。

 ちゃんと生きている。短いキスのあとに、俺は深く息を吐く。

 

「……帰ろう」

 

 俺は和の背中を軽く叩く。もう冷えてはいなくてほっとした。

 それにしても、母に報告するのが怖い。さすがに入院までして、何も言わないわけにはいかない。栄養失調気味だなんて知られたら、きっとひどく叱られるに違いない。

 

〝誉、お兄ちゃんっていうのはね、ちゃんと弟の面倒を見て、優しくしてあげるのよ。誉は偉いから、できるわよね〟

〝うん〟

 

 母に叱られたくなかったから、小さかった俺は百点を取れる言葉を探した。偉い子でいたかった。だから必死に答えた。

 

〝できるよ。ちゃんと面倒みる〟

 

 でも俺はできなかった。

 それでもいいと和は言う。兄弟として、こんなの本当は普通じゃないのかもしれない。

 だけどそれでも、俺たちはこれでいい。

 

「俺たちの家に」

 

 これからもたぶん俺は俺のままで、やっぱり嫉妬したり苦しんだりするだろうけれど、それも仕方がない。和がいなくなるよりはずっとましだ。歪んだままでも、血が繋がってなくても、俺たちは兄弟なのだから。

 

〝僕、優しくするよ。だって、お兄ちゃんだから〟