手に汗をかいていた。

「ごめんなさい……私、連君が気になってて」

 ああ、またかと隼人は思う。

 身体から力が抜けていく。振られるところまではいい。よくないが、まぁいい。だけどどうして決まって連の名前が出るのか。

「……知り合いだっけ?」

「あの、最近一緒に飲んで、いいなぁって……」

 うつむきがちに彼女は言う。

「いつから?」

 その茶色い頭を、隼人は必死に感情を抑えて見つめた。彼女は、サークルの新人歓迎会でたまたま隣の席になった同級生だった。結局隼人も彼女もそのサークルには入らなかったが、連絡先を交換してやりとりは続けていた。

「三ヶ月くらい前かなぁ」

 今回こそ、好感触だと思っていた。サークルの情報交換から、授業の話まで、雑談は尽きることがなかった。彼女の返信もいつも早かった。

 だが、結果はこれだ。

「俺と会ったくらい?」

「あ、そうかも」

 何も疑問に思う様子なく彼女は言う。

「あいつのどこが好きなんだよ」

「どこって言われても困るけど……いろいろっていうか」

 言ってやりたい。顔だろ、と。

 だけど言えなかった。わかっている。自分の外見はせいぜい十人並みだ。振られた上に、好きな男をけなすなんて最低だ。

 結局隼人は「これからも友達で」なんて曖昧に言って彼女と別れた。

「うん、ごめんね」

 だけど友達として続いたりしないこともわかっていた。

 大学に入ってから、四ヶ月。これで振られるのは五度目だった。

「ばいばい」

 背を向けた彼女に何も声をかけられなかった。

 五度目だ、という意識が隼人を打ちのめす。自分にももちろん原因があるんだろう。容姿だって頭の良さだって、人に自慢できるようなところはない。打ち込んでいた野球も高校までで辞めてしまったし、大した成績でもなかった。

 でも、五度目だ。……これで連に邪魔をされたのは。

 最初は疑問なんて持たなかった。

 “ごめんね”

 “好きな人がいるの”

 “連くんのこと――好きになっちゃった”

 告白する女の子女の子、みんなが連の名前を、まるで準備したかのように口にする。

 確かに連は、隼人の知り合いの中で、一番見た目がいい。隼人はもう見慣れているけれど、確かにテレビに出ているようなタレントと比較しても遜色ないほどだ。高校時代にはファンクラブがあったとかいう噂も聞いた。

「なんで……」

 彼女が欲しかった。高校は男子校で、野球の練習ばかりでそんな機会もなかった。共学の大学に進学した今が、チャンスだった。

 ……今彼女ができなかったら、きっと一生できない。

 疲れ切って、隼人は玄関のドアを開けた。

 隼人の家は、父と母、それから今は家を出ている姉の四人家族だ。玄関にはいつも複数の靴がある。だがそこに紛れる小綺麗な革靴を見て、隼人は頭の血管がキレるかと思った。こんな洒落た靴を父が履くわけがない。もちろん隼人のものでもない。

「連!!」

 リビングのドアを開け放つ。

 彼は、リビングのソファに寝そべり、スプーンを口に加えたまま携帯ゲーム機をいじっていた。足をソファの肘掛けにだらしなく乗せている。

 そんなだらしない格好をしていても、整った容貌だとなんとなく許せてしまう気がするからまた腹が立つ。そのままアイドルの休日みたいなキャプションをつけたら雑誌にでも載せられそうだ。実際はただだらけているだけなのに。

「何?」

 形よく大きな目、すっと通った鼻筋と小作りな唇。どちらかといえば中性的で、可愛らしい顔立ちだった。だから、高校時代のファンクラブとかいうやつには男も多かったらしい。隼人にはどうでもいいことだが。

 確かに連は美形かもしれない。でもだからといって、隼人の告白する相手が誰も彼も、連を好きになるはずがない。

「お前また、俺の彼女候補に手出しただろ」

 今日告白した彼女には、連との共通点はなかった。

 なのにいつの間にか、連と知り合いになっている。連はそんなに交友関係の広い方じゃないはずなのに。

「隼人に彼女候補なんていんの?」

「潜在的にはみんな候補なんだよ!」

 連はまたゲーム機に向き直っている。こうなったら力ずくでそれを奪ってやろうかと思った隼人は、ふと連が着ているパーカーに見覚えがあることに気づく。

「その服……」

「和子さんが出してくれた」

「やっぱり俺のかよ」

 連本人のものにしては、サイズが大きいと思った。勝手に息子の服を友人に貸し出している母にも呆れる。

「よれよれなんだけど」

「人の着といて文句言うな!」

 母も父も、よく遊びに来る連に異様に甘い。まるで第二の息子みたいに連をかわいがっている。隼人だって、そのこと自体に不満はなかった。

 でも、わざわざ隼人が好きになる女の子に近づくのは明らかに嫌がらせだ。どうせ彼女と付き合うわけでもないくせに。

「だいたい、話してるときにゲームすんな!」

「別にいいじゃん」

 連には今、彼女がいない。高校時代には彼女がいたから、興味がないわけではないはずだったが、誰とも付き合おうとしない。ゲームばかりやっている。

「よくそうほいほい告るよね、無駄なのに」

「うるせぇな!」

「まぁでも安心してよ。俺の目が黒いうちは彼女なんて作らせないからさ」

 連はそう言って、隼人を見上げて笑った。小さい頃は、天使のように可愛いなんて母は言っていた。だが、隼人からしてみたら悪魔だ。

「白目になれ!!」

 べぇ、と連は舌を出して、わざとらしく白目をむいて見せた。

 

 ・

 

 東京からほど近い郊外にある、二階建てのこぢんまりとした一軒家に、隼人は生まれたときから住んでいる。

 数年前、姉が出ていって少し広くなった。都内にある大学からは少し遠いのが難だが、わざわざ一人暮らしをするほどでもない。専業主婦の母は家の中のことを一通りしてくれているし、生活に不満はなかった。

 一限からの授業に出るため、隼人は六時に起きた。早起きは小さい頃からの習慣なので、目覚ましがなくても目が覚める。ベッドから降りようとして、床に敷かれた布団を踏みそうになる。隼人はそっとそこに眠る連を踏まないよう、布団の隅を歩く。

 寝顔だけは静かでかわいらしいかった。連は寝息すらほとんど立てない。

 一階に降りると、ちょうど父と母が食事をしているところだった。おはようと言い合って、隼人はキッチンで自分の朝食を用意する。

 隼人が食パンをトースターに入れていると、連が寝ぼけた顔で二階から降りてきた。

「隼人ー、俺の靴下知らない?」

 仕方なく、隼人はもう一枚食パンをトースターに入れる。

「知るか」

 連は寝癖のひどい頭をかきながら、ぼんやりとした顔をしている。もともと子どもっぽく見られがちな顔立ちではあるが、そうして油断しきっていると本当に幼く見える。

「早いな、お前にしては」

「隼人が起きるから」

「俺のせいかよ」

 連は朝に弱い。たぶんまだ半分くらいは寝ているのだろう。

「あ、私隼人のとこにしまっちゃったかも」

 母が立ち上がって言う。

「おはよう、連くん」

「はよ」

 父と連が挨拶するのを横目に見ながら、隼人はコーヒーメーカーから二つのマグカップにコーヒーを注ぐ。

 見慣れた朝の風景だった。

 どうして連がいるのかと、誰も尋ねたりはしない。テレビが今日の天気を告げている。また暑くなるらしい。

「隼人、靴下くらい自分でしまえよ、恥ずかしい」

「うるさい」

 人の家に泊まって上げ膳据え膳の扱いを受けていながら言えることではないと思う。

 隼人はテーブルにつく連の前に、コーヒーカップを出してやる。ミルクはなし、砂糖をスプーン二杯。

「サンキュ」

「どうせ連だって家事なんてしてないだろ」

 連はコーヒーを口に運ぶばかりで答えなかった。

 連の家は、ここから歩いて十五分ほどの場所にあるマンションだ。最近はあまり行っていないけれど、散らかっているのは目に見えている。

「連、お前今日何限から?」

「二限」

 コーヒーが熱かったのか、連はふうふうと吹いて冷ましている。まだ目がぼんやりしていた。

「じゃあ寝てればよかったのに」

「隼人は?」

「一限」

「俺も一緒出る」

 連の母親はまた出張中なんだろうか。泊まっていったということは、きっとそうなのだろう。

「まぁゆっくりしてなさい」

 父がのんびりとした口調で言う。だが、連に限っては本当に、一日この家でのんびりしかねない。連は気が乗らないと言って、すぐに授業をさぼる。

 トースターでパンが焼ける音がする。仕方がないから連の分と二皿のトーストを用意していると、母が「靴下の見分けがつかない」と言って戻ってきた。

 いつも通り、穏やかな朝の風景だった。

 

 

 高校の頃、彼女というのは遠い憧れの存在だった。

 むさくるしい男子校で三年間過ごした。野球部は、マネージャーまで男だった。甲子園に行くくらい強かったら違ったのかもしれないが、応援してくれる女の子もいなかった。

 当時はそれでもいいと思っていた。そのくらい、野球だけで手一杯だった。だけど高校三年の夏に地区予選での敗退が確定して、引退となったときにふと自分を見失った。

 高校時代の思い出が、野球をしていたことしかない。そうだというのに、大した結果も残せなかった。

 中学までは共学だったので、クラスの女子とも普通に話していた。だけど高校生になって、隼人には一人も女子の友人がいなかった。普段話す異性といったら母か五十歳を過ぎた教師くらいしかいない。

 ここのままじゃ、だめだ。

 ……本気で一生、童貞だ。

 そんな焦りを感じ始めていたときに、連と道端でばったり会った。

「あれ、隼人。髪伸びた?」

 見慣れない制服のジャケット姿の連は、背の高いモデルみたいな女の子と一緒にいた。制服だから同じ高校生なのだろうけれど、とても同じ世界の人間とは思えないくらい、美人だった。

「おー……」

 連は電車で三十分ほどの、共学の私立高校に進んでいた。中学まではそれこそ放課後、毎日のように遊んでいた。だけど高校になるとぐっと疎遠になり、顔を見たのも久しぶりだった。

「受験とかどうすんの?」

 連は今までと同じように気さくに話しかけてくる。当たり前だ。少し背は伸びたけれど、大して彼自身は変わっていないように見える。

 なのに、今までにないくらい連を遠くに感じた。

「いや……考え中」

 隼人はぼんやりと答えるしかなかった。

「美人だな……彼女?」

「まぁ」

 連は大した感慨もなさそうに言う。

 連は外見に恵まれている。それはもとから知っていた。だけど見慣れない制服を着た彼は、テレビの中の見知らぬ男みたいだった。

 背の高い彼女と並ぶと身長は同じくらいだったけれど、それでも見劣りはしていなかった。美男美女のカップル、という言葉が自然に思い浮かぶ。

 また家に来いよ、と言うつもりだった。しばらく顔を見せないから父も母も心配していた。だけどその言葉は喉を通らなかった。

「どこ受けるか決まったら教えてよ」

「……そうだな。じゃあ」

 

 それから、隼人は必死に受験勉強をした。もともと部活をやめたら受験に注力するつもりだった。とにかく凡人なりに努力するしかない。野球部での経験から、そのことだけは身にしみていた。

 想像の中では、大学生活の魅力ばかりが膨らんでいった。

 大学に行ったら、女子がいる。

 そうしたらきっと自分にもチャンスがある。

 彼女が欲しい。別に、とびきりの美女なんて望んでいない。普通の子でいいのだ。

 時間を忘れて遊んでいた頃、自分と連には大した違いもないはずだった。なのに、これほど別のところに来てしまったのかと愕然とした。

 隼人はなんとか第一志望の大学に受かった。下宿をすることも話題に上がったけれど、家から通えない距離ではなかった。

「まぁ、もし一人暮らしするなら、連君と一緒に暮らせばいいじゃない」

「なんで連?」

 連とはあのとき以来、会っていなかった。

 一時期は毎日会っていたいのに、もう数ヶ月顔も見ていない。残念だけれど、もう自分と連の道は分かたれたのだと思った。連とは結局、住む世界が違う。きっともう、親しく付き合うようなことはない。

「何言ってるの、同じ大学でしょ」

「え?」

「偶然よね」

 確かに連には、どこの大学を受けるかを伝えた。だが、連の志望校は聞かなかった。まだ迷っていると言っていたはずだった。

「前みたいに一緒に学校通えるじゃない」

 なぜか母が、うきうきと楽しそうにしていた。

 

 ・

 

「じゃあ、今日は楽しく飲みましょう! 乾杯!」

 大学には望んだ通り、女の子がたくさんいた。

 合コンに参加できること自体、最初はもう嬉しくて仕方がなかった。連絡先だって聞けば教えてもらえる。むしろ、交換することが推奨さえされている。まるで女の子がいなかった携帯の友達リストに、華やかな名前が増えていく。

 大学で知り合った相手には、飲み会の機会があれば呼んでほしいと頼んでいた。今日もそうして培った人脈により開かれた、N短大の女の子との合コンだった。

 最初は女の子と話すだけでも緊張していたけれど、さすがに慣れてもきた。今日こそは、彼女になってくれる子と知り合いたい。

 隼人はやる気に満ち溢れていた。今日、実際に合コンの席に着くまでは。

「好み……? 俺、家にいるのが一番好きだし、落ち着いた子かな」

 はしゃいだような、「私も家がいちばん好きです」という相槌が続く。お前は確かに家が好きだが、連続十時間くらいゲームしてるだけだろ、と言いたい。

「……お前、なんでいるんだよ」

 斜め前に座る連の足を蹴り上げると、倍くらいの強さで蹴り返された。痛い。

「何か言った?」

 彼女なんて作る気もないくせに。

 隼人は今日の幹事を睨みつける。連が来るなんて聞いてなかった。いや、三対三の合コンだと聞いていたのに四人ずついるから、もともとは来る予定なんてなかったのだろう。

 連は確かに、女の子受けがいい。幹事としても呼ぶメリットはあるのかもしれない。だけど連がいたら、まともに女の子と親しくなれるはずがない。

「ほんとに彼女いないんですか?」

「いないよー」

 連の異性遍歴はあまりよく知らない。噂ではとっかえひっかえだったりしたとか聞いたが、本人に聞いたことはなかった。どうしてあんなに美人な子と別れてしまったのだろう。それについても、聞いたことはない。

「ほんとなんですか?」

 隼人の隣に座っている喜多という子が、こっそり尋ねてくる。ややふっくらした顔立ちで、髪も肩くらいで比較的短い。今日のメンバーの中では、一番好きなタイプだった。

「彼女がいないのはマジだよ」

 最近の連はまるで中学生の頃に戻ったみたいに、隼人の家に入り浸っている。さすがにあれで、実は彼女がいるとは思えない。

 場はいつの間にか、連と隼人が小学生からの知り合いだという話になっていた。

「男の子同士、仲いいっていいですね」

「そんないいもんでもないよ」

 隼人が思わず口を出すと、連が小さく鼻で笑うのがわかった。ここが合コンの場でなかったら、張り倒してやりたい。

「大事ですよ、友達は」

 だけど隣りに座る喜多が穏やかに言ってくるので、「いや、そうですね」と隼人は意見を変えた。

「友だちは大事です」

 連がまた鼻で笑う。

「俺のことなんて何とも思ってないくせに」

「黙れ」

 もう一度足を蹴ってやろうかと思ったが、どうせ倍以上の力で蹴り返されるのがわかっていたからぐっとこらえた。

「仲いいんですねー」

 せっかくの機会なのに、連の話ばかりだ。だけど別の話をしようにも、女の子に受けの良い話題なんて思いつかない。ずっと女の子と関わりのない生活をしてきた。野球の話ならいくらでもできるが、贔屓のチームの話なんてしてもおっさんくさいし白けるだけだろう。

 結局小さい頃に一緒にプールで泳いでいて、連に蹴られて隼人が鼻血を出した話や、隼人が野球部の友人たちと学校に忍び込んで通報された話や、そんなことばかりで時間が過ぎていった。

 緊張もあって、早いペースでビールを口に運んでしまった。隼人はあまり酒には強くない。何とか平静を装いながら、トイレに立つ。ドアを開けた途端、連と鉢合わせた。

「酔った?」

「いや……」

 自分の顔が赤くなっていることはわかっていた。酒を飲むといつもそうなる。

「隼人、飲みすぎてない?」

 同じくらいには飲んでいるはずなのに、連の顔色は変わっていない。

「お前……何しに来た」

「……敵情視察?」

 とぼけた顔で連は笑う。悔しいけれど、連の方がずっと酒に強い。

「彼女いらないんだろ」

「だからいいじゃん。ライバルにならないし」

 確かにそうかもしれない。だが、女の子たちが同じように思うとは限らない。

「隼人は、ああいう子が好み? あの隣にいる……喜多ちゃんだっけ?」

 急にじっと目を向けられ、隼人は口ごもった。図星だった。

 連と好きなタイプの話なんてしたことがない。そもそも恋愛に関する話をほとんどしない。なぜバレているのだろう。

「……まぁ」

「何恥ずかしがってんだよ、キモい」

 この態度を席にいる女の子たちにも見せてやりたい。

「お前な! そうだよ好みだよ! だから邪魔すんな!」

 男子トイレで連と言い争っている場合じゃない。喜多はおとなしいタイプの子だった。正直、そこまで話がはずんだというわけではない。でも、控えめな笑顔や穏やかな会話のテンポがすごく心地のいい子だった。

「本気?」

「何が」

「本気で好きになった?」

 急に真剣な顔で連が問いかける。出会ってまだ一時間くらいしか経っていない。そんな風に真正面から聞かれると、答えるのに困る。

「そこまでは……」

 喜多に好感は持っている。だけどそれ以上はこれからだ。そう思って、隼人は曖昧に答えるしかなかった。

「じゃあいいじゃん」

「何がだよ」

「本気で好き、って言われたら協力してやろうと思ったのに」

「嘘つけ」

 連に限って、隼人に協力などするわけがない。彼女を作らせないともはっきりと言っていた。

 なんで、連はあんなことを言ったのか。それに、今日だって好きでもないはずの合コンに来ている。

「ちょうどいい、連」

 連にはこれまで、いたずらや嫌がらせくらいならされたことがある。でもそれはおふざけの範囲で、ここまで露骨にではなかった。

「別に俺に彼女ができても、今まで通りだからな」

「何のこと?」

「うち来てくつろいでていいし、泊まったり……」

 連は、彼女ができたら隼人の家に今までのように遊びに来れないことを気にしているのかもしれないと思った。確かに、結婚でもしたら付き合い方は変わるだろう。でも、彼女ができたくらいなら何も変わらない。

「『彼女欲しい』って顔に書いてあるのって痛いよ」

 だが、隼人の言葉を遮って強引に連は言った。

「……は?」

「誰でもいいです、脱童貞させてください、って男と付き合うのは女だって嫌じゃん、普通に考えて」

 連は笑っていなかった。冗談のようには聞こえない。顔立ちが整っているからなおさら、無表情だと冷たく見える。

 とっさには言葉が出てこなかった。頭の中が真っ白になる。

「……っ、お前」

 思わず手が動きそうになる。だがさすがにそれはこらえた。

 連に迷惑をかけているわけじゃない。むしろ、迷惑をかけられているのはこちらだ。

「ふざけんなよ」

 どうしてここまで言われなければならないのか。

 ふん、と鼻で笑って連はそのままトイレを去っていった。

 ぶつけられた暴言が頭の中でがんがん響く。行き場のない苛立ちを持て余して、隼人は手のひらを強く握りしめた。

 

 

「お前、いい加減にしろよ」

 帰り道、家が近い連とは自然と一緒に帰ることになった。女の子たちは熱心に引き止めてくれたが、二次会にまで行く気にはとてもなれなかった。どうせ、狙いは連だろう。

「何が? 楽しかったじゃん」

 結局あの後、場はそれほど盛り上がらないままだった。

「どこがだよ!!」

 こんなはずではなかった。

 さっきあんなことを言っておきながら、連は平然と隼人の家までついてきた。

 どうせ今日も、泊まっていくつもりなのだろう。当たり前のように隼人の部屋に上がり込む。

 もう両親は寝てしまったようで、家の中は静まり返っていた。前は遅くまで姉がばたばたしていたものだが、彼女ももう結婚して家を出ている。

「だから俺は、ちゃんと聞いたじゃん」

「何が」

「あの子のこと好きかって」

 確かにそういう会話はあった。そしてちゃんと答えなかったことも覚えていた。でも、答えたとしても連が協力なんてするわけがない。

「……好きだよ」

 隼人は口ごもりそうになる気持ちを押さえて、やっと口にする。だけどそれは我ながら、心のこもっていない言葉に聞こえた。連は無表情のまま、「へぇ」と冷たく呟いた。

「好きだ」

 だから隼人はもう一度繰り返した。連は、じっと隼人の目を見ていた。

 少なくとも付き合いたい。彼女になってほしい。

 確かに喜多に、電撃的に恋に落ちたりはしていない。惚れてはいない。でもいいなと思った。それだけではどうしていけないのか。付き合ってから深く知っていくことだってできるはずだ。

「どっちにしろお前は邪魔するんだろ」

 もし、あのとき「好きだ」と言っていたら連はどうするつもりだったのだろう。

 隼人が彼女を欲しがっていることを、連は知っている。最初からずっと。

「……さぁね」

「お前はもう、彼女作らないのかよ」

 連と同じ高校に行った知り合いが、言いにくそうに教えてくれたところでは、連の評判は最悪だった。女の子と手当たり次第付き合っては、すぐに捨てるということで悪名高く、ファンクラブがあっても、友人は一人もいなかったという。確かに中学の頃から、連には同性の友人がいなかった。

「いらない」

「もう飽きたって?」

 今まで隼人には一人の彼女もできたことがないのに、贅沢な身分だ。

「……俺は駄目なんだよ」

「え?」

 予想外の返答に、隼人は反応するのが遅れる。

「付き合わないほうがいいから、そうしてるだけ。もういい、寝る」

 連が弱音を吐くのは珍しかった。だが連はそのまま強引に話題を断ち切って、隼人のベッドの布団にくるまってしまう。

 普段はベッドが隼人、布団が連というのが暗黙の了解だった。

「おい、連、そこで寝るのかよ」

 連は身動きしようとしない。別にわざわざ引っ張り出すこともないかと思い、隼人はため息をついて、布団に腰を下ろす。

 連の大学生活にはそこまで詳しくない。同じ大学とはいっても学部が違うので、普段は顔をあまり合わさないのだ。

 一応連にも、話をするくらいの知り合いはいるようだった。でも友人といえるほどの相手がいるのかはわからない。連にとっては、一人でゲームをしているのが一番ラクなのかもしれない。彼女といたりするよりも。

「贅沢な悩みだな……」

 明かりを消して布団に潜り込む。連はもうぴくりとも動かなかったから、たぶん寝ているのだろう。

 いつの間にか連専用になっている布団は、顔をうずめると彼のにおいがして、なんだか少しだけ落ち着かなかった。

 

 ・

 

「合コンで彼女できるって都市伝説なんじゃないかな……」

「俺はもともと、合コンは非効率だって言ってる」

 高橋はあっさりと言った。大学そばのカレー屋は、大盛りが無料でおいしいので、昼食時はほとんどここに来る。今日も学生たちでにぎわっていた。

「初対面より、何度か顔を合わせるクラスの人間のほうがまだ可能性がある」

「そうか……?」

 かろうじて、喜多とは連絡先を交換していた。幹事が気を回して、その場の全員で連絡先交換をしようということになったのだ。

「何度も会ってく中でやっと好感度は上がるんだ。恋愛ゲームと一緒だ」

 激辛カレーを平然とした顔で口に運びながら高橋は言う。高橋とは、高校時代に駆け込みで通った予備校で知り合った。彼は連と同じ商学部で、隼人とは学部が違うがこうしてよく一緒に昼食を食べている。

 さすがに大学でできたばかりの友人に、恋愛相談をする気にはなれない。いつも冷静な高橋に話をできるのはありがたかった。

「でも、それから何度も会えば、きっかけは合コンだっていいだろ」

「何度も会えるのか?」

 隼人は黙るしかない。連絡先こそ交換して、メッセージを送った。だけど喜多からの返信は、「またみんなで遊びましょう」というつれないものだった。

 隼人は辛さ普通のカレーを食べているが、それでも辛い。高橋は激辛カレーを食べながらも平然としている。いつものことながら、どういう舌をしているのかと思う。

「……彼女がいるやつはいいよな」

 高橋の言う意味はわからないでもない。合コンで運命の相手に出会うのは、奇跡みたいな確率だ。そんなにすぐうまいこといくわけがない。

 でも、何も努力しないよりマシだ。

「別に彼女がいたっていなくたって変わらない」

「同じわけないだろ!」

 余裕のある高橋の態度に思わず声を荒げてしまう。いつものことだからか、高橋は気にせずにカレーを食べ続けている。

 高橋には高校時代からずっと付き合っている彼女がいる。だからこそ余裕があるのだろうと思った。

「彼女がいてもいなくても、柏原は柏原だろ」

「慰めてんのか、それは」

 きれいごとだとしか、隼人には思えなかった。 

「……まぁ今回は、連が来た時点でケチはついてたしな」

 そもそもが無理だったのだろう。高橋はクラスの知り合いのほうがいいと言うけれど、学内はもっと危ない。

「石田のせい?」

「そうだよ」

 これまでに告白した子も、いつの間にか連と知り合いになっていた。飲み会づてで、とか知り合いの知り合いで、とか、関係性は色々だった。いずれにしても結果は同じだ。連のことが気になるからと言って振られる。

 とにかく、気になった女の子と連を近づかせてはダメだ。

 店の外を、忙しく学生が歩いていくのが見える。キャンパスが無駄に広いので、取っている授業によっては急いで移動をしないといけなくなる。足早に歩いている人も多かった。

「……ほんとに彼女欲しいのか?」

 カレーを食べ終わって水を一気飲みした高橋が、思いのほか真面目な顔で言った。

「欲しいに決まってんだろ」

 何を言っているのだろう。当たり前だ。健全な十八歳として、誰だって彼女は欲しいだろう。連は例外だが。

「じゃあ、石田と距離置いた方がいいんじゃないか」

「え?」

「週に何度も同じ部屋に寝泊まりしてるような相手に、気になる子がいるとか、そういうことを完全に隠すのは難しいだろ」

 思わずきょとんとしてしまい、反論もできずに隼人は高橋の言葉を聞いていた。

 とにかく連を女の子に近づかせないようにしようとは思っていた。だが、連を自分から遠ざけるなんて考えたこともなかった。

「俺が……?」

 そういうことではない気がする。でも、うまく反論できない。

 隼人が何も言えないでいると、高橋はテーブル上の水差しを取って、自分のコップにまたなみなみと水を注いだ。そして、一気に飲み干す。

「まぁ、いいんだけどな」

 そして珍しく、高橋は少しむせた。

 

 

 “石田と距離置いたら?”

 高橋の声がぐるぐる頭の中を回る。確かにそうかもしれない。これまで知り合う女の子たちみんなに連の名前を出されて振られた。つまり自分の交友関係は、連とつながってしまっている。

 別に連と縁を切ろうというわけじゃない。高校の頃は部活に忙しくて、自然と疎遠になっていた。あの頃と同じことだ。

 でも、母も父も連のことを気にしているし、家に来るなとは言えない。

 今日は授業が終わってからバイトの予定だったけれど、急なシフトチェンジで空いてしまった。ぶらぶらと隼人は家への道を歩いていた。なんとなくすぐに家には帰りたくなくて、遠回りをした。のんびりと川原の道を歩いているうちに、連の家の近くにまで来ていた。

 夕暮れ時だった。連の住むマンションは、川の向こうに建っている。

 橋を渡りきらずに、隼人はぼんやりと川を眺めた。川面に夕日が照って眩しい。

 何ということはない、見慣れた近所の風景だった。

 小さい頃は、川原でよく遊んだ。服を水浸しにしてしまったことも一度や二度ではない。大人しそうな顔をしていながら、そうやって隼人が失敗すると、連はいつも笑った。

 連は今もしょっちゅう隼人の家に来ているけれど、逆に隼人が連の家に行くことは少ない。小ぎれいなマンションだが、連の母親はめったに家におらず、ほとんど一人暮らしみたいになっている。

 距離を置く、という言葉には抵抗がある。でも、高橋の言うことはまっとうだ。連に対して愚痴を溜め込むくらいなら、顔を合わせる回数を減らした方がいい。

 ……理屈はわかる。

 あのとき連は本当に、「本気で彼女のことが好きだ」と言ったら、協力するつもりだったんだろうか。そんなことあるはずないと思う。だけど同時に、そうかもしれないという気もする。連はひねくれたところもあるけれど、嘘はつかない。

 連が何を考えているのかわからない。そしてそのことにひどくもやもやする。いつの間にか、夕日はすっかり沈みきっていた。

 そんな風にぼんやりしていて、気づくのが遅れた。道路を隔てた橋の反対側を、連が歩いている。

「連……?」

 連は一人ではなかった。一緒にいるのは、随分年上の男だ。こちらには気づいていないみたいだった。

 隼人は足を早める。だが、横断歩道がないので向こう側には渡れない。男が何かを連に渡して、連が頭を下げた。男は反対側に歩き出し、連はそのまま、一人で家に戻るみたいだった。

 隼人はほとんど全力疾走で横断歩道を渡ったが、マンションの下につくころにはもう男の後ろ姿は随分遠く、連はマンションの中に入ろうとしているところだった。

「連!」

 オートロックを開けようとしていた連が振り向く。

「隼人? 何してんの」

「ジョギング……」

 息を整えながら隼人はかろうじて言葉にする。

「今の、知り合いか……?」

「何?」

「誰かといただろ」

「何でもない」

「何でもないって……知り合いなのか?」

 男の身なりは上品で、チンピラなどではなさそうだったけれど、わからない。実は借金があってその督促人だったりしないだろうか。連が手に持っていた封筒を、さりげなく見えないように隠したのもわかっていた。

「母さんの知り合いだよ。隼人には関係ない」

「そうかよ」

 人のことには勝手に頭を突っ込んでくるくせに、勝手な言い分だ。このまま走って自分の家に戻ろうかと思ったとき、連が言った。

「上がれば?」

 別に連の家に来ようと思っていたわけじゃない。距離を置く――高橋の言葉が脳裏に浮かぶ。だけど、今日の連は少し変だった。気になるからと自分に言い訳して、隼人はマンションのオートロックをくぐった。

 

 連の家は、思ったより片付いていた。相変わらず趣味のいいインテリアが多い。こぢんまりとしたマンションだった。

「聡美さんは?」

「仕事」

「久しぶりに会いたかったんだけどな」

 連の母親は仕事もできる上にものすごい美人だ。だが、どこか薄幸そうなところがある。

「熟女好き?」

 連は鼻で笑って、冷蔵庫からビールを出してくる。連が自分で飲むために買っておいているのだろうか。棚からポテトチップスなども出てくる。

「家で飲んでんのか?」

「たまに」

 だけど、ビールの缶を開けてソファに座るまでの動作があまりに自然で、その言葉が本当なのかは疑わしかった。

「隼人も飲むだろ?」

 隼人はビール一本で顔が真っ赤になる。だが、連はもっと強い。どのくらいなのかは知らない。断ることもできずに、隼人は缶を受け取った。

「別に俺、飲みに来たわけじゃ……」

「いいじゃん。映画見ない?」

 それよりも話がしたかったけれど、何から言えばいいのかもわからない。結局隼人は、連の提案に賛成した。

 ゲーム機を手慣れた様子で操作して、連は映画を再生し始める。

 映画は怪獣の出てくるパニックものだった。たまたまそこに居合わせた登場人物がカメラを回しているという設定だけあって、映像はリアルだ。主人公らしき男が、女の子にカメラを向けては微妙な反応をされている。

 隼人はそっと連の横顔を盗み見る。映画を見るために、部屋は最小限の明るさにしていた。父親ではありえないし、あの男は一体誰だったのだろう。親戚が近くにいるとも聞いたことがない。

 映画は徐々に不穏になり、画面が大きく揺れる。怪獣が現れたというより、大きな災害に襲われたみたいな雰囲気だった。

 日本でも大きな災害の後、結婚が増えたと聞いた。確かに非常時に、一人では不安だし怖い。

 “『彼女欲しい』って顔に書いてあるのって痛いよ”

 誰かに自分のそばにいて欲しい。それはそんなに、恥ずかしい願いだろうか。熱烈に恋に落ちなくても、そばにいるうちになんとなく、なんてよくあることなんじゃないのか。

 連はもう一本目のビールを空にして、どこからかワインボトルを持ち出してきた。グラスもご丁寧にふたつある。連はラグに座っている隼人のそばに座り込んだ。

「俺、ワインは飲めない」

「いいからいいから」

 何もよくないが、連は隼人のグラスにも赤い液体を注いだ。聡美さんが取引先からもらったものだそうで、高そうだった。そっと口をつけてみたけれど、確かにふくよかな香りがして飲みやすい。

 映画の中では、ニューヨークの町がほとんど壊滅状態にあることがわかってきた。登場人物たちは次々と怪物に襲われている。こんな状況で、自分だったらどう生き残るだろうか。あっさり最初の頃に死にそうだ。

 隼人がなんとかグラスのワインを半分ほど飲んだ頃、連が言った。

「酔った?」

 薄暗いからよくわからないが、連の顔はいつもより赤い気がした。いつの間にかワインボトルの中のワインは随分減っている。

「お前、どんだけ飲んだ?」

 今は何時だろう。もう夜だが聡美さんは帰ってきていない。

「全然」

 連はするするとワイングラスの中身を減らしていく。強いのだろうけれど、さすがにペースが早すぎるように見えた。

「足りない、こんくらいじゃ」

「……大丈夫か?」

 二人ともラグの上で座って飲んでいるので、距離は近かった。

 そういえば、連と二人で向き合って飲んだことなんてなかったかもしれない。隼人の家ではみんなほとんど酒を飲まない。

「隼人はさぁ、やっぱり恋人、欲しい?」

 ぽつりと連が言った。画面の中では男が、彼女と連絡が取れなくて慌てている。

「欲しいよ」

 すっかり酔った頭では、素直な答え以外出てこなかった。

 欲しい。当たり前じゃないか。当然に願っていいことじゃないか。俺は彼女が欲しい。

 確かにやり方はうまくなかったかもしれない。でも、自分は凡人だから、数を試さないとどうにもならないとも思う。脳裏にはいつかの連と彼女との姿が焼き付いている。

 あんな風には、なれない。

「……一生童貞じゃ、嫌だ」

 自分に限っては、連みたいに自然にしていても、あんなにきれいな彼女ができるなんてことはありえない。……だからこのままじゃ、一生童貞だ。

 笑うのかと思ったけれど、連は真顔のままだった。

「一生?」

「このままじゃ、そうなる」

「大げさすぎ」

 連は笑った。

 視界がぐらぐらする。眠気もあった。明らかに飲み過ぎだ。ワインが思ったより飲みやすかったし、連のペースにもつられた。

「なぁ、俺眠いからちょっと映画止めてくれ」

「いいな、それ……そうしようか。一生、隼人に彼女は作らせない」

 いいことを思いついたというように、連は笑いながら言った。かあっと頭に血がのぼる。

「……てめぇ」

 強く手のひらを握りしめる。

「なんでだよ!」

 薄暗い部屋の中で、連の目が濡れて光って見えた。見慣れない、テーブルの上のワイングラス。広げられたポテトチップスの袋。怒りで頭はぐらぐらするのに、身体に力が入らない。

「なんで、そこまで……」

 そんな風に嫌がらせをされるほど、連から嫌われているなんて思わなかった。

「でも、童貞捨てさせんならできるよ」

 何を言われたのかよくわからなかった。

「何?」

 気がつくと連の顔が間近にあった。本当によくできた顔立ちだなとぼんやり思う。

 隼人はそのまま、ラグの上に身体を押し倒されていた。視界がぐるぐる回っている。

「っ……な、に」

「わかる?」

「な、に言って」

 のしかかってきた連に唇を塞がれて、それ以上、疑問を口にすることもできなかった。

 何が起きているのかまったくわからなかった。生まれて初めてのキスは、ワインの味がした。

「ん……っ」

 わけもわからず呻いたが、より深くにまで舌の侵入を許してしまっただけだった。お互いの息が酒臭い。頭がぼうっとする。気持ちがいい。

 だめだ。

 どうして。

 だってこれはよく知っている連のはずだ。連は幼馴染だ。昔から知っている、古い同性の友人。だからキスなんてするはずがない。

「……できるんだよ」

 連が何か言った気がした。だけどもうよく聞こえなかった。