「わかった。これ、あれだろ。名前取られるやつ」

「なに?」

「ほら、映画でさ、迷い込んでった先に温泉旅館があって、そこで働くんだよ。しかも名前は一文字だけ残して取られるんだ」

「ちょうどいいな、成は名前が一文字だから」

「よくない」

 

 やっぱりここがどこなのか、浅野にはよくわからなかった。電波は通じている。山奥というわけでもない。そこまで長く車に乗っていたわけでもないと思う。都心からそう遠くない場所のはずだった。

 なのにまるで、異世界にスリップしてしまったみたいに感じる。家の中にはぼんやりと黄色っぽい明かりが灯っている。何だかやっぱり温泉旅館みたいに浅野には見える。

 

「じゃあうちで働くか? 温泉はないけど」

「わかってるよ!」

 

 むしろこれで天然温泉までついていたら自分の正気を疑う。

 

「だいたい湯屋っていうのは一般的に花街の隠喩でそこで働くっていうのはつまりあれだろ」

「あれって?」

 

 どう考えても墓穴を掘りそうなので浅野は口を閉じる。異常な状況だからこそ、喋っていないと落ち着かなかった。

 最近、なんだか理解の及ばないことばかりが起きている。

 これでも慎ましやかな普通の暮らしをしてきたつもりだ。エスカレーター式で大学まで進学できたのは、それは両親が必死に働いて学費を払ってくれているからだ。決して安い金額ではないと知っている。

 だからこそ浅野もちゃんと元を取れるくらいは勉強するつもりだったし、一年生からゼミに入らせてもらったのも、今後のことを考えてのつもりだ。

 

「この部屋、自由に使ってくれていいから」

 

 そう言われてあてがわれたのは、どう考えても実家にある浅野の部屋よりも広い、ゆったりとした作りの寝室だった。和風の部屋だが置かれているのはベッドで、広々としたサイズだった。

 

「……ほんとにいいのか?」

「別に、浅野の家にだって何度も泊めてもらっただろ」

「それは普通にうちのソファだったろ」

 

 普通の住宅に、こんな風に客用の部屋があるとは思えない。だが信じられないけれど、どうやらここは長塚の家で、浅野は客人として自由にしていていい。どうやらそういうことだった。

 

「実は高額な利用料を請求されるとか……商学部の学生だませると思うなよ」

「はいはい、そうだな。何か必要なものはあるか?」

 

 付き合うつもりはない、と電話で長塚は言っていた。もともと直接顔を合わせて聞かなければと思っていたのに、黒澤に襲われた後という異常な状況のせいもあってか、なかなか話を切り出せない。長塚も何も言ってこない。

 彼の中ではもう、終わったことなのかもしれない。あれこれ言っていたのは、やってしまった気まずさからのフォローのつもりだったとか。だとしたら浅野も、あれは一夜の過ちだと認識しなければいけない。

 あとは忘れる。それだけだ。

 自分たちはこれまで通り友人として関係を続ける。浅野にとっても、それは願ってもないことのはずだった。

 

「ええと、とりあえず携帯の充電借りたい。あ、ここwifi使えるか?」

 

 平常心、と自分に言い聞かせる。大丈夫、ここはまず間違いなく日本だし東京都内だ。こいつは高校からの友人の長塚。何も不思議なことなんてない。神隠しになんて遭ってない。

 

「わかった。パスワードもあとで知らせる」

 

 長塚は淡々と言って、歩き去っていった。昼間の電話のことは、何も言わなかった。

 一人になった部屋の中で、浅野はベッドに身を投げる。上等そうなスプリングが体を支えてくれ、深く息を吐く。

 

「なんなんだよ」

 

 横たわると、蹴られた腹のあたりが鈍く痛む。いきなり暴力を振るってきた黒澤といい長塚といい、わからないことばかりだった。

 

 ・

 

「……浅野」

 

 誰の声だろう。どこかで聞いたような気がする。

 

 ――好きだった? そんなのあんたの勝手でしょ? だから何?

 

 彼女のことはちゃんと好きだった。少なくとも自分ではそう思っていた。でも、彼女を傷つけて高校生活を送れなくしてしまったなら、自分が悪かったんだろうか。

 正直、今となってはほとんど彼女のことは忘れていた。でも、彼女は忘れなかったのだ。

 彼女は今どうしているのだろう。大学に通っているか、就職をしているのだろうか。外に出てきているのだから、引きこもりではないのだと思いたい。

 好きになった。それだけだった。

 数ヶ月前には先輩の連にも振られた。彼は友人を続けてくれているけれど、でもやっぱり迷惑に思われていた部分もあっただろう。

 一時期の連はそうとう色々ため込んでいたようで、彼がそれに耐え切れず学内で大声で叫んでいたところも見た。一瞬は学生たちの間で話題になったものの、広い構内に変人は事欠かない。すぐにみんな忘れてしまっていた。

 あれだけ叫べたら心地いいだろうなと思う。でもどちらかといえば、浅野は言いたいことはすぐ言ってしまうタイプだ。むしろ、言わなくていいことまで言ってしまって問題を悪化させることの方が多い。

 その口の軽さは、そのうち問題を起こすぞと誰かに言われたこともある。あれは誰だっただろう。連だろうか。

 

「浅野」

 

 連と恋人の柏原はきっと、はっきりと言いたいことを言い合って、お互いの気持ちを確かめ合って順調なのだろう。だいたい、二人が付き合う前に居酒屋で会ったときからして二人の間の空気は明らかに親密で、ほかの人間とは違っていた。

 幼馴染なんて卑怯だ。幼少期に先に出会っていて、もうそれが運命の相手だったら敵わない。どれだけ後に現れた人間が努力しようとも。

 

「……都合いいんだよ」

「誰が?」

 

 はっとして目を覚ますと、黒っぽい天井が目に入った。ここはどこだ。頭が混乱する。

 

「えっ」

 

 顔を上げると浅野が寝ている広いベッドの隅に、長塚が腰かけていた。

 

「あれ……」

「おはよう」

 

 朝だった。

 眠気をこらえながら風呂に入ったところまでは覚えている。実際のところ温泉旅館とほとんど変わらないような、檜でできた大きな風呂だった。そこから部屋に戻って、たぶんすぐに寝てしまったのだろう。こんな慣れない、広い部屋では眠れないかと思ったのだがぐっすりだった。

 

「どうしたんだ?」

「ええと……ああ、ゼミの先輩の話……」

 

 ぼんやりと身体を起こしながら浅野は答える。くそこいつ足長いななどと思ってしまうのがまた腹立たしい。

 

「話したっけ? 連先輩のこと。結局、幼馴染と付き合い始めたんだけど、やっぱ幼馴染っていいよな。恋愛ゲームとかでも定番じゃん」

 

 気まずさがむしろ口をなめらかにしていた。今までも散々、長塚には愚痴を話してきている。だから問題なんてないはずだった。なのになぜ、気まずい気持ちになるのだろう。

 

「小さい頃に出会って好きになった相手と、ぽっと出の新人だったらさ、敵わないだろ普通に」

「そうかもな。朝飯は?」

「食う」

 

 浅野がそう答えると、長塚が立ち上がる。考えてみるとかなり腹が減っていた。

 一体どんな朝食が出てくるのかと、楽しみな気もする。よくわからない状況だが、どうせなら楽しまないと損だ。

 いつの間にか開いているカーテンの向こうには、木々のシルエットが見える。

 

「こういう自然が多いとこいいよなー。ずっと住んでんのか?」

「ああ、ずっとね」

 

 ドアが開いたとき、早いけれど誰かが朝食を持ってきてくれたのかと思った。

 

「ちょっと、なんでそいつを家にいれてんのよ」

 

 黒澤だった。彼女の姿を見ただけで、おなかのあたりが痛くなる気がして、ベッドの上で浅野はたじろぐ。

 彼女は今日は、すっきりとしたパンツとブラウスを着ている。どこかに出勤でもする途中みたいに見えた。化粧もしていて、そうするとやっぱり顔がきれいで目を引く。

 

「私は認めてない」

 

 つかつかとベッドの側にまで近づいてくる。浅野はまだベッドから立ち上がっておらず、固まるしかない。

 

「じゃあ結婚するのか?」

「……っ」

 

 黒澤と長塚は、当たり前のように二人で会話をしていた。

 

「え、なんで……いや、一応クラスメイトか」

 

 同じクラスにいた同士だが、話しているところは見たことがなかった。というよりも、黒澤が誰か同級生と話しているところなど見たことがあったか怪しい。

 

「元はといえば暴力を振るったのが悪い。謝った方がいい」

「心の暴力に仕返ししただけですー」

「なら心の暴力を仕返せばよかっただろ」

「そんな陰惨な発想するのあんただけよ」

「いや、待って、なんでここに黒澤がいるんだよ」

 

 二人の口調はあまりにもラフだった。高校の同級生というだけでは説明がつかない。同時に自分に向けられた二人の視線にどきりとした。

 似ている。

 以前の黒澤はうつむきがちで、顔を髪で隠してしまっていた。そのせいなのか、今の今まで気づかなかった。

 

「黒澤はいとこだよ」

「え!? なんで同じクラスに……」

 

 長塚がざっくり説明をしてくれるがやっぱりよくわからない。どうして同じ学校の同じクラスにいて、しかうも他人の振りをしていたのか。黒澤はずっとうつむいていたし、明らかに孤立していた。

 

「栞が言うなっていうから、隠してたんだよ」

 

 そりゃあいとこなら下の名前で呼び合うだろう。でも、長塚の口から彼女の名前が出たときどきりとした。

 黒澤はつんとそっぽを向いたまま何も言わない。確かにこうして二人を目の前にすると、整った顔立ちが似通っているのは明らかだった。今日の黒澤は髪をすっきりと縛っている。

 以前は顔を髪で隠していて、もったいないと思っていた。でももしかして、長塚と似ている顔立ちを見られたくなかったのだろうか。

 

「なんでそこまでして……」

「あんたには関係ない。さっさと思い出させて、そんで出てってよ」

「何の話だよ」

 

 黒澤とは高校時代、ろくに話をしていない。だからこんな性格だったのかと今更ながらに驚く。よく見つめてはいたけれど、内面まではまるでわからなかった。

 

「あんたがさっさと思い出せば解決するの」

 

 急に黒澤に詰め寄られて、暴力の記憶もあって身がすくむ。美人で気の強い女性はむしろタイプだが、さすがにもう彼女のことをそういう対象としては見られなかった。

 

「な……にをだよ」

「あんたが昔、プロポーズしたことを」

「はぁ!?」

 

 昔も何も、そんなこと今だけかつてしたことはない。今のところそんな予定もない。困ったように長塚に目をやると、だけど彼は無表情だった。

 

「え……いや、俺、そんなこと」

 

 心あたりは本当にない。だけど自分が責められていることはわかる。そうすると、まるで自分が悪いかのような気がしてきてしまう。

 

「いつだよ、っていうか、誰に、どこで、何なんだよ」

 

 焦ったように浅野は言葉を重ねる。だけど冷たい目で黒澤に見返されただけだった。長塚も何も助け船を出してくれない。わけがわからなかった。

 

「とにかくこうなったら、あんたが思い出すまでここからは出さないから」

 

 黒澤が言うと説得力がある。何しろ彼女は力尽くでそれができるだろう。彼女はそれだけ言い残すと、慌ただしく部屋を出て行った。

 高校時代のことで、怒られたりなじられたりするのはまだ納得がいく。でも、どうして小さい頃のことを思い出さないと出られないというのか。

 長塚と二人で部屋に取り残された後も、浅野は呆然としていた。

 

「とりあえず、朝飯食うか」

「おい、長塚。どうなってんだよ」

「俺が嘘をついたんだ」

「は!?」

 

 長塚は爽やかに微笑みさえ浮かべてみせる。罪悪感を覚えているというわけでもなさそうだった。

 

「それを黒澤は信じてる。悪いけど、ちょっと付き合ってやってくれないか」

 

 ・

 

 外を散歩しながら、浅野は長塚の説明を聞いていた。

 長塚はいい家の子供で、将来を父親に案じられている。もう結婚もできる年齢だ。本来なら許嫁が決められるところなのだという。

 だけど一方で、長塚の家は伝承を大事にもしていた。七歳までは神のうち、というのもそのひとつで、長塚も女の子の格好をさせられたり、変わった育て方をされたのだという。もともと、長塚家の先祖が幼少期に精霊だか何だかから土地を与えられ、それにより繁栄したことにもとづくらしい。

 

「まぁ確かにこの自然ならなんかいそうではあるけどなー」

 

 都内だと聞かされたが、森のようになっていて周囲はまったく見えない。背の高いマンションぐらいとこかに見えてよさそうなのに、どこを向いても木ばかりだ。家は浅野が滞在している本宅と離れがあるばかりで、あとは木々に覆われている。

 

「でもなんで俺なんだよ……」

 

 長塚は、結婚を決められるのを嫌がって嘘をついた。

 なぜだか知らないけれどよりによって、幼少期に俺に告白された、と。

 黒澤はそれを信じ、俺の口からもそのことを確認すれば信じるのだという。別に長塚と結婚したいわけでもなさそうだったのに、疑い深い女だ。

 

「まぁまぁ、悪いけどちょっと付き合ってくれ」

「じゃあ、俺は嘘で言えばいいのか? 確かにこいつに昔、『プロポーズしました』って?」

「それはだめだ」

 

 長塚が言うには、たぶん黒澤も数日で諦めるだろうから、それまでこの家に滞在して、付き合ってやってくれというのだ。生活に不自由はさせないからという。

 確かに旅行にでも来たような気分で滞在するのに悪いところではない。朝食もホテルのようなオムレツと絞りたてのジュースが出たし、夕飯も好きなものを用意してくれるという。

 ちょうど浅野の家は親も海外に行っている。黒澤に睨まれることを別にすれば、快適な生活はできそうだった。

 

「やー、でも俺やっぱ授業もあるから、帰った方がよくない?」

「今帰ろうとしたら、たぶん栞に殺されるぞ」

 

 長塚の言葉があながち冗談にも聞こえないのが怖い。

 大学の授業料がもったいない、ととっさに思ったがさすがに貧乏くさい気がして言うのが気が引ける。

 

「大学の資料とか着替えとか、必要だったら持ってこさせるから」

 

 この植物の名前は何というのだろう。大きな木に赤っぽいツタが絡みついている。浅野はその葉を触りながら、ぼんやりと長塚の説明を聞いていた。

 

「悪いな」

「いや……元はといえば、黒澤に恨まれてるのは俺のせいだし」

 

 二人がもともと身内だったのだとすると、長塚が自分をかばってくれた理由もなんとなくわからなくはない。黒澤が顔を隠したがっていたのは長塚と血縁であることがばれたくなかったのが大きいのかもしれない。身内のことで迷惑をかけた、と思えば長塚は俺をかばうぐらいのことはするだろう。

 

「やっぱり嘘つけば円満に終わる気がするんだけど……結婚もなくなってハッピーだろ?」

「浅野の嘘くらい、栞は見抜く」

 

 言われてみるとそんな気もする。

 付き合えない、と言われたことが小骨のように喉に刺さっている。じゃああの、寝た後にされた告白のようなことは何だったのか。

 浅野は嫌な可能性に気づいてしまう。もしかして長塚は、この嘘をつかせるために自分を利用しようとしたのだろうか。長塚は困っていて、誰か嘘でいいから過去のプロポーズ相手となってくれる人間を探していた。そこに都合良く、利用できそうな浅野がいた。

 

「でもなんでよりによって俺なんだおよ。女の子連れてきた方が、結婚相手ですつってもわかりやすいだろ? だって、俺がプロポーズしたっていっても結婚できないわけだし」

「女の子の格好させられてたって言ったろ」

「女の子に告白する女の子だっているだろ。……いや、それも変な話になるのか?」

「もともと法律上の話じゃないんだから、細かいことはいいんだよ。七歳までは神がうんぬんっていうのも迷信なわけだし」

 

 彼自身はそういう伝承を信じているわけではないらしかった。

 何となく釈然としないけれど、今のところ浅野は従う以外にはなさそうだった。

 

「まぁ、俺はのんびりしてればいいんだろ? それならいいけどさ……」

 

 何にせよ、浅野の気持ちというのはまるで考えられていない。

 もう一回、長塚に聞いてみたかった。本当に自分のことを好きなのかと。だけどそんなこと、とても口にできそうにはなかった。

 

 ・

 

 ざわざわと木々がそよいでいる。背の高い木が多かった。

 普通の公園だったら、木々が生えていてもその向こうにマンションが見えたりする。でもここは本当に隔絶しているかのように外が見えない。

 

「こんなとこ存在してんのか? ほんとに」

「叔父の家はもっと大きい」

「どこにあんだよ、いや待て、聞きたくない」

 

 もはやつっこみを入れる気にもなれなかった。あたりに生えている一本一本の木は大きく、歴史を感じさせる。昨日の雨がまだ葉を濡らしていて、緑は青々としていた。

 長塚は広い敷地の中を、ゆっくりと案内してくれた。ほかにすることもないし、見たこともない屋敷の敷地は新鮮だった。一坪いくらだろう、と下世話なことをつい考えたくなってしまう。

 

「長塚、お前大学はいいのか?」

 

 長塚は答えない。彼が通っている大学は少し遠いはずだ。たまたま授業のない日なのかもしれないが、もしかしたら気をつかって今日は一緒にいてくれるのかもしれない。

 考えてみれば、こんなに長い間彼と二人きりで過ごすのは久しぶりだった。

 とにかく敷地の中には木々が多かった。先祖代々、大事にしている自然なのだという。住居として使われているのは敷地のごく一部で、残りのほとんどは森だった。

 屋敷の中もざっと案内してくれたが、多くの部屋は客室で、誰も使っていないようだった。そんなところも温泉旅館っぽい。数少ない使われている部屋は、長塚の部屋と従業員用だった。

 

「お前ってさぁ、なんで外部の大学受けたの?」

「父方の親戚に言われて」

「……なんで?」

「色々あって」

 

 あ、はぐらかしたなと浅野は思った。長塚はだいたい聞いたことは答えてくれるので、彼がその話題を避けたがっていることがかえってわかってしまった。浅野にはよくわからないが、いい家に生まれるというのも色々大変なのだろう。

 

「お父さんっていえばさ、家族はどこに住んでるんだ?」

 

 黒澤の姿はあれ以来見えない。食事をするときも、いつも長塚と二人きりだった。他にも手伝いの人の気配はあちこちでするのだが、家族という雰囲気ではない。

 

「ここにはいない」

「お母さんは……亡くなってるんだよな」

「ああ」

 

 これ以上深堀りしていいのか、浅野ははかりかねた。結婚のことといい何やら複雑そうな事情はわかる。今までいつも長塚には愚痴を聞いてもらっていた。でも彼から相談を受けた記憶はない。

 

「あ、そういやさ、お前兄弟はいるんだっけ?」

「いないよ」

「あ、俺は姉と兄がいるんだけど」

「知ってる」

 

 なるべく明るい口調で話したつもりだったが、空々しさばかりが感じられた。これだけ広い敷地に一人きり、となると明らかに事情があるのだろう。いや、厳密には人は住んでいるのだから一人暮らしではないかもしれない。でも、長塚だって一応まだ十代だし、家族が誰もいないなんてやっぱりちょっとおかしい。

 

「浅野の兄さんはどこにいるんだっけ? スペイン?」

「スイス。スしか合ってないだろそれ。まぁでもよく覚えてたな」

 

 もともと恋愛の愚痴が中心だったけれど、浅野は家族の話もよくする。銀行員になって海外に赴任している兄のことは、中でもよく会話に上がっていた。

 

「仲がよさそうでいいなと思ってたから」

「俺が散々兄と姉にいじめられた話もしただろ! 言っとくけどかわいがりだなんて幻想だからな」

 

 同い年のいとこである黒澤は兄弟に近い存在だったのだろうか。

 一通り家の中を見てしまうと、もう特にやることはなかった。最終的には庭を見ながらお茶をするという、老人みたいなことになっていた。

 

「暇だろ。悪かったな。何か映画でも見るか?」

「いやいいよ、こういうのもまぁ新鮮だし」

 

 まだ戸惑いが大きいけれど、自然が多い環境自体は悪くなかった。昨日の雨はもうすっかり通り過ぎていて、空はよく晴れている。さらさらと葉擦れの音がしていた。

 こうなると、普段長塚が自分の家に寝泊まりしたり、大して高くもない居酒屋で一緒に食事をしていたことが不思議に思えてくる。住むところが、世界が本当ならたぶん全然違う。

 名門の私立高校に入ったときにも感じた。同じ東京に暮らしていても、全然違う階層で生きている人たちはいる。普段は知り合わないしふれ合わない。だけど彼らもある種の普通さを持った人たちではあって、当たり前に暮らしている。

 

「長塚お前ってさ、宇宙人ぽいよな……」

「どこが?」

「なんつーか、ほんとに同じ言葉を使ってるのか信じられなくなるっていうか……」

 

 浅野は長椅子に背を預けて伸びをする。そうするとぴりと、黒澤に蹴られた腹のあたりが痛んだ。

 

「いてて……あの女本気で蹴りやがった」

「大丈夫か? ひどいようなら薬を届けてもらうけど」

 

 長塚が近寄ってくる。

 

「見せてみろ」

「やだよ」

「肋骨って折れても気づかないことがあるらしいぞ」

「怖いこと言うな!」

 

 長塚の手が、浅野のシャツをめくる。蹴られたあたりは昨日よりもはっきりと、青くあざになっていた。それほど広範囲ではないし、数日で消えるだろう。

 長塚の指がそこに触れると、反射的に体が強ばった。

 

「……っ」

 

 乱暴な手つきではない。だけど、痣になっているところを確かめるようになぞられ、軽く押されると鈍い痛みが走る。

 

「い…っ」

「骨は折れてないみたいだな」

 

 肋骨をなぞるように指が動いていく。背筋がぞくぞくした。

 

「……ちょ」

「何?」

 

 長塚は普段と変わらない、爽やかな笑みを崩していない。からかうな、と言いかけたけれど声がうまく出なかった。

 高校時代のことは自分にも原因がある。でも、蹴られたり、快適だとはいえ自由を奪われたり散々だ。

 長塚は付き合えないという言葉を覆していない。彼の望むとおりに黒澤の追求を耐えて、それでまた自分たちは友人同士に戻るんだろうか。指が肋骨をなぞり上げ、そのまま胸にまで届く。

 

「……っ」

 

 手を伸ばして長塚の服の裾を掴む。そのまま乳首に触れられて、思わず声が漏れた。

 

「あ」

 

 キスはしなかった。長塚がさっと手を動かすと、縁側の窓は色が変わって、外が見えなくなった。

 長椅子は身動きがしにくく、あたりは静かだった。

 長塚はさっき指でなぞったときとは打って変わって、痣に触れないよう慎重に触れてきた。何なのだろう。浅野に対して気を遣い過ぎるほど使っているようでいて、だけど利用するような無神経なところもある。彼が何を考えているのかわからない。

 告白されたら振る、それだけのシンプルなことのはずだったのに、翻弄されて彼のことばかり考えている。

 

「あ……っ、やっ」

 

 黒澤はまだ家の中にいるのだろうか。たぶん壁もしっかりしているだろうから、それほど響かないと思いたいけれど。

 

「体重かけるといけないから、上になってくれ」

 

 長塚の上にまたがる格好になる。窓に覆いがかかっているとはいえ、まだ外は昼だ。さすがに恥ずかしかったし、今回は酒という言い訳もない。

 それでもここまできて、途中でやめるなんてできなかった。固く猛ったものを、ゆっくりと飲み込んでいく。

 

「……っ、あ」

 

 なんで結論が出ていないのに、またこんな風に抱き合っているのだろう。経験がないわけではないけれど、今までろくな恋愛はしてきていない。受け身の側の男性とのセックスもしたことはあるけれど、それほど気持ちがいいとは思わなかった。

 ゆっくりと深く、奥まで入ってくる。思考が溶けて、体だけの生き物になるような気がする。

 

「ん、あ……っ」

 

 すべてを中におさめると、それだけで息が苦しかった。見下ろすと自分の青あざと、それから繋がっている部分がはっきりと目に入る。

 

「動けるか?」

 

 問われるまま、腰をゆるく揺さぶる。気を抜くと崩れ落ちそうになるくらい刺激は強くて、激しくなんて到底動けなかった。

 長塚の手が、腰を掴む。

 

「や…め、あ……っ」

 

 徐々に激しく腰を動かされる。どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。かつて男に抱かれたときは、相手がろくな男でなかったせいもあるけれど、痛くて仕方がなかった。

 でも、長塚とするのは全然違う。優しいけれど、時折少しだけ乱暴でもあって、それが気持ちよくてたまらない。たぶん、よく相手を見てるんだろうな、と浅野はぼんやりと思う。

 

「あ…っ、や……ああ」

 

 感じすぎて涙がにじむ目を開く。そうすると長塚の顔が見える。

 いとこだと言われてみると、二人は似ている気がする。長塚を見て女顔だと思ったことはないけれど、ごつさのない顔立ちは怜悧に整っている。

 美形だな、と思う。彼より容貌のいい人間と付き合うことなんて自分にはきっとできないだろう。どうして長塚とは付き合わないのだったっけ。ああ、振られたのか……。いや、振られたんじゃないけれど。

 

「や…めっ、あっ、いきそ……」

 

 浅野は動きを止め、じっと長塚の顔を見下ろしていた。動かないでいても、中に入っているものがどくどくいっているのを感じる。

 

「腹、痛くないか?」

「大丈夫……」

 

 答えた途端、ぐいと体を持ち上げられた。縁側からほど近い寝室にそのまま連れて行かれ、ベッドにに押し倒される。キングサイズのベッドのスプリングは上等だった。

 長塚は痣のあたりに触れないように慎重にベッドに手をつき、体制を変えて貫いてくる。

 我を失うようなことをしているのにどこか冷静で優しい。いっそ、怪我のことなんて気を遣わずに獣のように貪ってくれればいいのにと想像してしまう。

 特に被虐的な好みはなかったはずなのに、どうかしている。

 

「や……っ」

 

 限界が近かった体を深く貫かれて、浅野はそのまま達していた。

 

「俺、なんでさ……」

 

 本当に、どうして自分は彼を好きにならなかったのだろう。そうなっていたらよかったのに。いや、そうなっていてもどうせ振られるのだから同じなのかもしれない。どこか他人事みたいにそんなことを考えていた。

 

「……っ」

 

 少し遅れて長塚も射精する。眉根を寄せて少し苦しそうな表情が、何だか新鮮だった。