保奈美は私の告白を本気にしていない――だって私たちは、女友達だから。

社会人の知紘は、高校からの友人の保奈美に誘われて温泉旅行に出かける。
急に来れなくなった保奈美の彼氏の代理だった。
知紘は一度、保奈美に好きだと言ったことがある。でも、本気にはされなかった。
知紘は何度も、保奈美のことを諦めようとするのだが……

社会人百合短編、R18。

 

※当初kindleで発行していたものを公開しました。

 2019年5月に発行予定の百合短編集に収録予定です。

 

 

 

「あー、いい景色!!」

 目の前のお団子が揺れる。ほつれた毛が濡れて首筋に張り付いている。

 触ってみたい、と思う。だけど知紘は手を伸ばせなかった。

「最高でしょ?」

「まぁ、タダだと思えばね……」

「海を見ながら温泉に浸かるなんて最高以外の何ものでもないでしょ」

「まぁ、彼氏となら楽しいかもね……」

「さっきから何なの!?」

 怒った顔で保奈美が振り向く。知紘は困った顔で笑うしかなかった。

「こんなにいいところなのに……」

 保奈美はぶつくさ言っている。

 確かに高級な旅館で、こんな風に部屋に露天風呂もついている。出迎えてくれた女将さんの対応もこちらが恐縮してしまうほどだった。品の良い調度品、広い和室、露天風呂からは海が見える。

 調べていないけれど、一泊二万や三万では足りないだろう。きっとこれから、食べきれないくらいの料理も出てくる。

 部屋付きの露天風呂は小さく、二人で入るとお湯がかなり溢れた。

 知紘は岩に頭を載せ、まだ明るい空を見上げる。

「だって、ねぇ……」

 保奈美に聞こえないくらいの声で呟いた。確かにいいところだ。しかも、知紘は一銭も払わなくていい。なぜなら、保奈美の彼氏が事前に支払いを済ませているから。

 タダで旅行に来ないかと言われた。

 日程さえあえば、着の身着のまま来てくれて構わないという。他の誰も都合が合わなくて、無駄にしてしまうよりは誰かと行きたいのだと保奈美は訴えた。

 だけど、本気で誘われているとは思えなかった。

 LINEの返信をしぶっていたら、焦った様子で電話がかかってきた。

『ねぇ、行こうよ』

 保奈美はたぶん、同行者が見つからなかったら行かないつもりなのだ。前に、映画も食事も一人では行かないと言っていた。旅行なんて一人でするわけがないし、温泉旅館ならなおさらだろう。

『予定ある? ないなら行こ』

 急な彼氏のキャンセル。何があったのか、保奈美は詳しく話さなかった。仕事の都合かもしれない。仲違いしたのかもしれない。わからない。

 ――でもなぜ私を誘ったのだろう。

 気軽な感じで聞けばいい。しばらく疎遠だったのは事実だし、なんでと聞くのは変なことじゃない。そう思ったのに、言えなかった。

『口コミも評価すっごいよくて、楽しみにしてた宿なんだよ』

 気がついたら知紘は、待ち合わせ場所について打ち合わせていた。

 いくら他に都合がつく人がいないからといって、二人きりの温泉旅行に誘われるとは思わなかった。よほど他に誘える相手がいなかったのか。

 確かに知紘も、社会人になって友人と都合が合わないことは増えた。というよりも、大学の友人とはあまり連絡を取っていない。自然と、職場の同期と飲みに行くことばかりになった。

 知紘はため息をつく。保奈美といると、昔に引き戻される気がする。

『ねぇ、予定ないんでしょ』

 本当はこの土日、知紘には約束があった。急なキャンセルで相手はひどく腹を立てていた。理由もろくに話さない、ひどいキャンセルの仕方だったから無理もない。でも言えなかった。

「あーほんといいとこ」

 保奈美は何の警戒心もなく、海を眺めながらぼんやりしていた。温泉の湯気が立ち上っている。冬だ。露天風呂に入るにはいい季節だった。

 知紘も温泉は好きだ。でも、事前に入っている約束をキャンセルしてまで、来たいというわけではなかった。

 なのに急な保奈美の電話に、その日は都合が悪いと言えなかった。

「……確かに、いい景色」

「でしょ、極楽ー」

 保奈美のはしゃぐ声に、無理をしている様子はない。本当に、彼女は何も思っていないのだろうか。気まずいとか、意識してしまうとか、そんなことはかけらもないのか。

 だとしたら、本当に自分はバカだと思った。

 ……それほど望みのない相手のことを、まだ好きなのだから。

 

 ・

 

 保奈美と初めて会ったのは、高校のグラウンドだった。

 わざわざ冬の寒い時期に、ひたすらグラウンドを走る体育の授業があった。知紘はその頃貧血がひどくて、体育は見学ばかりだった。

 あの頃は毎日、やたらとフラフラしていた。今思えば、心因性の部分もあったのかもしれない。両親が離婚したばかりだった。

「体調悪いの?」

 その日、見学者は二人だけだった。よく知らない相手だから、ちょっと嫌だなと思ったことを覚えている。

「めまいがして……」

「私はさぼり」

 保奈美はあっけらかんと言って、知紘の隣に腰掛けた。

「走るの速いのにね」

 寒そうに両腕を抱きながら、保奈美は言った。

「え?」

「そうでしょ?」

 保奈美が自分のことを認識しているとは思わなかった。知紘は改めて保奈美をそっと観察する。

 染めてパーマもかけているのだろう、明るい色の髪。(校則は自由だった)薄い化粧、マスカラの塗られたまつげ。目立ってものすごい美人というわけではないけれど、おしゃれでこぎれいだ。かろうじて朝、髪はとかしたというレベルの知紘と違って、保奈美のすべてのパーツにはちゃんと手がかけられているように見えた。

「よく知ってるね」

「見てたもん、よく」

「いつ……?」

 保奈美は答えずに、にこりと笑った。

 名前も顔もはっきり認識していなかった彼女が、急に生々しい存在感を持って目の前にいた。知紘は確かに陸上部に入っているし、県大会にも出ている。だけどそれほどいい順位でもなかったし、表彰されたりしたわけでもない。彼女が知っているとは思わなかった。

「ぶっちぎりでしょ? 走ったら」

「私、長距離は得意じゃない」

「それでもさ」

 彼女なりの冗談だったのかもしれない。だけど保奈美は、やけに確信のある口調で言った。

「走ったら一位だよ」

 グラウンドでは、寒い中で苦しそうにクラスメイトたちが走っている。その動きは、傍から見ているせいだろうけれど、確かに遅いかもしれなかった。

 ……長距離は得意ではないけれど、ずっと走ってきた。

 知紘の頭のなかにも、確かに見えた気がした。息を切らして苦しそうにしているクラスメイトの間を、ごぼう抜きにかけていく自分の姿が。

「……そうかも」

「でしょ?」

 保奈美は楽しそうに笑った。どこもかしこも、自分とは違う「女の子」だ、と思った。きっとモテるのだろう。

 その予想は間違っていなかった。

 高校時代からずっと、保奈美に彼氏が途切れたことはない。もっと言ってしまえば、途切れるどころか複数いるときだって……結構あった。望みなんてはなからない。

 

 ・

 

 和室は、二人で使うには十分すぎるほど広かった。雑魚寝をすれば五人以上は泊まれるだろう。広々としすぎていて逆に落ち着かない。

「風呂上がりの一杯!」

 保奈美はさっそく、買い込んできた酒を冷蔵庫から出している。

 考え事をしながら湯に浸かっていたせいで、少しのぼせた気がする。保奈美と一緒に、二人きりで風呂に入ったせいでもあるかもしれない。

「飲むでしょ?」

 保奈美の品よく肉付いた腰回りや、意外に大きい胸などを、露天風呂で知紘はしっかり見てしまっていた。

 保奈美は答えを聞かずに、ビールの缶をテーブルの上にふたつ置く。さっきドライヤーで乾かしていたのに、彼女の髪はまだ少し濡れていた。

「乾杯」

 そうして知紘が手に取る前に、保奈美は自分で、テーブルの上の二つの缶を軽く触れ合わせた。保奈美は小気味良い音を立てて缶を開ける。

 部屋の中は静かだった。そういう落ち着いた雰囲気も売りなのだろう。かすかに水音のようなものが聞こえるのは、あれは潮騒だろうか。

 温泉になんて、久しぶりに来た。

 保奈美は一体どういうつもりなのだろう。誘う相手がいなかったというのはきっと本当だろう。保奈美は女友達が多くない。

 じゃあ男は?

 自分で考えておいて、自分でダメージをくらった。確かに男友達なら少なくないだろう。相手も保奈美を友達と思っているかどうかは怪しいが。でも、彼女はきっとそういう気分じゃなかった。だから女友達である知紘を誘った。

 だって温泉旅館に男友達と二人だったら……何もないでは済まないだろう。

 でも知紘は女友達だから。いくら自分のことを好きだと知っている相手であっても、女友達だから。

「飲まないの?」

 じっと考え込んでしまっていた知紘に、保奈美は身を乗り出して缶を差し出してくる。手に取らざるをえなくて、知紘はビールを喉に流し込んだ。

「風呂上がりの一杯って最高だよね」

 女友達だから、何も起こらない。襲ったりもされないし、面倒なことも言い出さない。

 女友達だから。

「まぁね」

 保奈美の携帯は、部屋の隅で充電されている。風呂から上がってから一度も、保奈美はそれを手にとっていなかったが、何度か鈍く振動していることには気づいていた。たぶんメッセージを受信している音だ。聞こえていないわけではないだろうに、保奈美は確認しない。

「ご飯何時だっけ?」

 そのことが嬉しかった。姿の見えない彼氏に、勝ったような気分になる。

 だから知紘も、携帯はカバンの中に入れっぱなしだったし、連絡できなかった。本当はケンカをしたままの恋人に謝るなり何なりしないといけないのに。

 私たちは女友達で、これは楽しい温泉旅行。

「七時だよ」

 保奈美はテレビをつける。やっていたのは、動物のドキュメンタリー番組だった。

「そっか」

 食事は部屋にまで運んできてくれるらしい。思い立てばすぐに風呂にも入れて、いたれりつくせりだ。

 ビールに口をつけ、知紘は静かに息を吐く。ここはいいところ、なんだろう。こんなに緊張しているのはきっと自分ひとりだ。

「あー」

 ビールをごくごくと飲みながら、保奈美はくつろいだ様子で足を崩している。浴衣の裾からすらりとした足が見える。

 酒を飲んでも、落ち着かなかった。落ち着けるわけがない。

 女同士で付き合うというのは、実際便利でもある。恋人とホテルに泊まったり、旅行に行ったりしても、誰も怪訝には思わない。手を繋いでさえ。仲のいい友だち同士なんだろうな、と何も説明しなくても思ってくれる。

 だけど知紘と、恋人のカヨとはそういうことをしたことがない。いつもお互いの家に行って、慌ただしくセックスをするだけだ。広告代理店に勤めているカヨはとにかく忙しい。好かれていないわけではないと思う。むしろ、カヨから猛烈にアピールされて始まった関係で、カヨはすぐに知紘に甘えてくる。

 カヨとの関係に、強い不満があるわけではなかった。

 ただ、知紘がずっと未練たらしく引きずっているだけだ。

「おいしいー」

「彼氏も、お酒強いの?」

 保奈美の彼氏に会ったことはなかった。ここの支払いをぽんと持てるくらいだから、羽振りは悪くないのだろう。

「うーん、普通くらい? たぶん知紘の方が強いよ」

 化粧を落とした保奈実の頬は、温泉で暖まって内側からぼんやり赤く上気している。それを思わずじっと見てしまい、知紘は不自然にならないように気をつけて、目をそらした。

 もし自分が男だったら、こんな状況は生殺しだと、怒るのかもしれない。

 湯上がりの浴衣一枚の姿で、好きな人が旅館の部屋にいる。こんな絶好のシチュエーションなのに、くつろぎきった保奈美に手を出すことはできない。

 好きだとは一度伝えたことがある。

 大学のときだ。同じ高校から別々のところに進学して、少し疎遠になって焦って、言ってしまった。保奈美は驚いてはいた。でも、にこりと笑って流された。本気にしていなかったのかもしれない。だから、二人の関係はそれまでと同じだった。

 むしろそれからは、知紘の方から距離を置いた。自然にしていようと思っても、どうしても意識してしまう。

「ワイン開けると、私のほうが全然飲んでる」

「へぇ」

「だから、ね、今日の知紘には期待してるから」

 保奈美はそう言って、人差し指を知紘に突きつける。

 保奈美は何を思っているのだろう。なぜ知紘の好意を知っていて、こんなところに誘ったのか。

 ……たぶん、深く考えずに他に相手がいなかったからなのだろうな、と思う。もう告白のことなんて忘れているのかもしれない。

「そんなに飲めないって」

「何言ってんの」

 保奈美はけらけら笑って、またビールを口にした。でも別に、恋人は酒の強さで選ぶわけじゃない。いくら知紘と飲むのが楽しくても、保奈美にとって知紘は友だちの枠を超えることはない。

「夜は長いんだから」

 ちょっと心配になってくる。彼女が酒を飲むペースはやけに早かった。さっき上がった時、もう一度温泉に入ると言っていたけれど、この状態で入るのは危ないだろう。おとなしく寝てくれた方がまだいいかもしれない。

「何か悩みでもあるの?」

 それとなく知紘は水を向けてみる。彼氏とはつまり、うまくいっていないのだろうが、詳細は聞いていなかった。

 地元のお菓子メーカーに就職した保奈美は、今までと同じかそれ以上にはきっとモテているだろう。相手に困ることはないはずだ。

「えー? お酒が好きなだけ」

 とっておきの笑顔とともに保奈美は言う。男にもそういう笑みで甘えているのだろうなと、とっさに考えずにはいられなかった。

 卑屈になる自分が嫌だ。それこそ保奈美がつきあってきた男全員に嫉妬していたら、身が持たないというのに。

 保奈美はとてもモテた。ものすごく美人というわけではないけれど、女の子らしい愛嬌があって、男の子相手にも臆するところがない。ファッションもメイクもすごく気をつかっているし、実際新しいメイクを考えたりするのが大好きなのだという。日焼け止めだけとりあえず塗ればいいという知紘とは大違いだ。

 それでも仲良くなった。高校の頃には、同じ予備校に通っていることがわかって、自然と放課後、一緒に予備校まで行くようになった。

 それほど話題は合わなかったけれど、保奈美は気にする様子もなかった。知紘っておもしろい、と言ってくれた。

 両親が泥沼の争いの後に離婚して、ただひたすらに走ることで、気持ちを紛らわせていた頃だった。保奈美と話すと心がはずんだ。恋も愛も何も信じないと強く決意した時期だったのに、それでも心が揺れた。

 学校に行きたくないときでも、保奈美に会えると思えば何とかなった。

 旅館の夕食は、予想通り豪勢だった。刺身からしゃぶしゃぶ、ミニステーキまで、ちょっとどうかというくらいとにかく豪華さを追求した食事だった。

 最後に出てきたご飯は、二人とも食べきれずに残した。保奈美はすでに、ビールを数缶と、日本酒を開けていた。

「ちょっと外、歩きに行かない?」

「え?」

 この寒いのに何を言っているのだろう。その気持ちが顔に出ていたのか、保奈美は続ける。

「ちょっと酔いさましに」

 思う存分今夜は飲むと言っていたのに、気が変わったのだろうか。保奈美は立ち上がって、浴衣の上にコートを着込み始める。正直、明らかに寒い外に出るのは嫌だったけれど、保奈美が行くというなら止められない。

 知紘はしぶしぶ、立ち上がった。

 

 

「さっむ!!」

 浜には出られません、と女将さんから聞いた。でも、外に出ただけでも潮騒の音が強くなる。浴衣の上にコートを羽織ってきたけれど、それでも寒い。

 周辺には似たような旅館がたくさん立ち並んでいる。ぼんやりと黄色っぽい明かりが連なって灯っていた。

「温泉街ってどこまでだろ」

「わかんない」

 寒くて、もう今すぐにでもまた温泉に入りたくなる。暗くて保奈美の顔はよく見えなかった。

「温泉来たって感じする」

「そうだねー」

 二人で石畳の道を歩いた。人通りは多くないけれど、明かりがちゃんとあるし、土産物屋もまだやっている。さすがに夕飯の後でまんじゅうを食べたい気分にはならなかったけれど、明日は買ってもいいかもしれない。

「彼氏さぁ……あんまりうまくいってないんだよね」

 酔っているとは思えない、はっきりとした口調で保奈美は言った。

 予想できていたことではあった。いくつかの返答を知紘は考える。慰めるべきだろうか。相談に乗ったほうがいいのか。初老の夫婦とすれ違う。こんなところにまで、私はどうして来たんだろう。

「そっか」

 知紘はとっさにそう口にしていた。それ以外、うまく言えなかった。

「別れるかもしれない」

「へぇ」

「どうでもいいの?」

 なぜか保奈美は、真顔で知紘を見つめていた。

「いや、どうでもいいとか……いうわけじゃ、ないけど」

「彼はさ、今回の旅行、きっと次の相手と行ったって思ってるよ」

 そんなことを言われても、知紘には答えようがない。彼女がいつだってすぐに次の彼氏を作ってきたのは確かだ。

 いつだって、彼女のそばには別の男がいた。

「だから?」

 思わず冷たい声が出た。

 知紘と保奈美は友だちだ。これは、女友達との温泉旅行。でもそんな風に、知紘は本音では思っていない。

 大学三年の夏、ふたりで浴びるほど飲んだ夜、保奈美は珍しく先に眠りに落ちた。

「風邪引くって」

 薄く開かれた彼女の唇。何人の男がキスをしてきたのだろうかと思ったら頭がかあっと熱くなった。

 そっと、唇を寄せた。柔らかかった。幸せだと思うのと同時に死にたくなった。

「私、今恋人いる」

「え、ほんとに?」

 保奈美が驚くのが心地良かった。

 もう彼女に勢いで告白してから、四年以上が経っている。自分だって、あのときのままではないのだと見せつけたかった。

「三歳年上で、忙しいんだけどすごく仕事できる人」

「えー、こんなとこ来てよかったの?」

「昔からの友だちだからって言った」

 嘘だった。本当はカヨは、勘付いていた。カヨとの予定よりも優先するべき、急な旅行。友だちを助けるようなつもりで行くのだと言っても、納得してもらえなかった。

 〝それってほんとに友だちなの?”

 彼女の勘は正しい。知紘にとっては、友だちなんかじゃない。あのグラウンドで会った初対面のときから、ずっとそうだった。

 ずっと触れたかった。

 自分だけのものにしたかった。

「ふーん」

 保奈美は顔を知紘の方に向けずに、足を速める。いつだって手は、届かなかったのだけれど。

「どんな人?」

「大人だよ」

「私達だってもう大人じゃん」

「……年上で、頭がいい」

「性格は?」

「やさしいよ」

 自分で口にしていて、なんて中身のない言葉だろうと思った。やさしい恋人。知紘は彼女に、それだけの役割しか与えなかった。週末にお互いの家で会うだけ。それはカヨがいつも疲れているからでもあったけれど、知紘にとっても都合がよかった。他の友人を紹介したこともない。旅行の計画を練ったこともない。

 坂道にぼんやりと街灯が続いている。本当に、この道はどこまで続いているのだろう。

 海に途切れていく道を知紘は思い浮かべる。最後には波に飲み込まれていく道を、二人で歩いているのだと考えてみる。

 いっそこのまま二人で海に入っていってしまえればと、考えても仕方がないことを考えてしまう。

 知紘の思いに、どこにも出口なんてない。誰かと付き合えば、保奈美のことは忘れられるかもしれないと思った。だけどカヨを前にしていても、どこかで保奈美を思わないことはなかった。

 見なければいいのだとわかっていながら、保奈美のSNSを覗いた。保奈美はいつも、誰かと楽しそうに食事をしていた。明らかに彼氏とだろうとわかる、高級そうなレストランの画像も多かった。

 もう終わりにしないといけない。何度もそう思って、でもできなかった。

「私、知紘が大好きだよ」

 ふいに、ぽつりと保奈美が言った。

 かあっと頭に血がのぼるのがわかった。もし周囲が明るかったら、自分は真っ赤な顔をしていたに違いない。

 それは恥ずかしいからではなかった。

「やめて」

 知紘が覚えていたのは、純粋な怒りだった。

 告白したとき、振られるならそれでもよかった。でも保奈美の態度はこれまで通りだった。彼女が好きだからこそ、それはありがたかったし、でも耐え難かった。だから知紘から距離を置いた。

「ほんとだよ」

 キープをしている男たちにも、こんな風に言っているのだろうか。

 保奈美のことを好きな男たちは、こんな甘い言葉に、舞い上がって二人目候補になるのだろうか。

「私の事弄んで楽しい?」

 知紘は顔を覆った。耐えられなかった。嫌いだと言われる方がずっとマシだ。

 保奈美のことが好きだった。好きになってしまった。受け入れてもらえる可能性なんてかけらもない相手だと、そんな風に冷静に考えられたならよかったのに。

 気付いたときには好きだった。

〝ぶっちぎりだよ”

 走ることだけが生きがいだったあの頃の自分を、認めてもらえたような気がした。それだけでよかった。

「ごめん……」

「保奈美は、自分のことばっかりだよね」

 自分が彼氏とうまくいかなくて辛ければ、どれだけ知紘のことを振り回してもいいのだと思っている。知紘が結局は自分を見捨てないことを知っている。

 これはあまりに割に合わないゲームだ。知紘は保奈美には一生勝てない。

「いつもそう」

 ……だから本当は、距離を置くしかない。会わなければいいのだ。SNSも見てはいけない。そして、カヨとちゃんとした恋人同士として過ごす。それしか未来はない。

「なに、それ」

 でもそんな未来、欲しくない。

「ひどくない?」

 保奈美は笑った。

 保奈美は今の彼氏と別れても、またすぐに新しい恋人を作るだろう。きっと彼女は知紘ひとり失くしたって痛くもない。

 胸が痛くて、どうしていいかわからなくて、叫び出しそうだった。

〝大好きだよ”

 怒りを覚えた、屈辱的な言葉でさえ、本当は嬉しい自分もいる。きっとこの先十年は、この言葉だけで生きていける。

 それほどまでに知紘が保奈美のことを好きなことを、保奈美はきっとどこかでわかっている。

「保奈美って、自分のこと好きな男の子にも、こういうことすんの?」

「え?」

「デートしたり」

「温泉は、来ないよ」

 それはさすがにそうだろう。

「でも、食事くらいならするんでしょ?」

「別に、ご飯くらい友だちともするでしょ……」

 目に浮かぶようだった。酒も飲んで、きっと酔ってしまったとかぽわんとした顔で言って、期待させるだけさせておいてすっと帰るのだ。

 残酷な人。大学や就職先で、保奈美よりも美人な人と知り合わなかったわけじゃない。カヨだって、実際かなりの美人だ。だけど、それでも保奈美だけが特別だった。

 このまま一緒にいても、きっとずたずたにされるだけだ。だから本当は、もう諦めないといけない。

 くしゃん、と保奈美がかわいらしいくしゃみをする。

 どれほど好きでも、もう、終わりだ。

「寒いねー、そろそろ戻ろっか」

 さすがに気を使っているのだろう。保奈美が何事もなかったように口にする。

 だけどこのまま保奈美と一晩、同じ部屋で過ごすのはもう辛かった。いくら高級旅館の快適な部屋であっても。

 ――私は彼女の恋人じゃないし、そういうことは期待されていない。

 きっとこの先どれだけ時間が経っても。

「戻る、けど、私もう東京帰る」

「えっ?」

「ごめん」

「いやちょっと待ってよ!」

 踵を返して知紘は歩きだす。すっかり身体は冷えてしまったし、酔いも醒めていた。

「もう電車ないよ!?」

「タクシーでいいよ」

「いくらかかると思って……」

「でもここにいるよりマシ」

 保奈美が一瞬、息を飲む音が聞こえた。こんな風に、知紘の方から保奈美を突き放すのは初めてだった。

 でももう限界だ。彼女のことを好きだからこそ、一緒にはいられない。

「ごめん……!!」

 腕を掴まれて、知紘は立ち止まる。保奈美は見たことがないほど真剣な顔をしていた。

「帰らないで……」

 思い切り振り払うことも、できなくはなかった。でも、知紘は立ち止まったまま動けなかった。保奈美の手も冷えていた。彼女はなぜとは聞かなかった。知紘が何に苛立って、どうして帰ろうとしているのか彼女はわかっている。

 まっすぐな目で、保奈美は知紘を見返していた。

「部屋に戻るなら、抱いてもいい?」

 保奈美が今度こそ動揺もあらわに見返してくる。すぐに彼女は手を離すだろうと思った。

 でも、何も言わなかった。冷たい手で知紘の腕を掴んだまま。冗談だよ、と言おうと思った。それをきっと彼女も期待しているだろう。冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。

 保奈美が小声で何かを呟く。

「……なに?」

「…………いいよ」

 冗談だと思った。でも彼女は笑っていなかった。冷え切っているはずの顔が、ほのかに上気して見えるのは気のせいだろうか。

「そのつもりで、来たんだから」

 

 

 保奈美は昔からモテて、無邪気に知紘に男の話をしてきた。歴代彼氏の問題点を、知紘はそれぞれ十は並び立てられると思う。

 仲の良い友だちであり続ける、というのはそういうことだ。わかっていたつもりだ。

 彼女は男にモテるし、そのことを喜んでいる。それは変えられないこの世の摂理だ。そう思っていた。

 部屋に戻ると、布団が二枚敷かれていた。ぴったりとくっつけるでもなく、距離を取りすぎるでもなく、絶妙に二枚が並べられている。もしカップルだとわかっていたら、もっとくっつけるのだろうか。

「あー、寒かった」

 緊張を吹き飛ばそうとするかのように、保奈美が明るい声で言う。知紘はかえって、どうしていいかわからなかった。保奈美は同性に恋愛感情を持ったりしないはずだし、肉体関係なんて考えたこともないのだと思っていた。

 片思いが長いから、罠だとしか思えない。

「あ、そうだ。さっき食べられなかったゼリー食べない?」

 夕飯であまりにおなかがいっぱいになってしまったのでデザートまで食べられず、冷蔵庫に入れておいてもらったのだった。知紘は正直、そんな気分になれなかったが、操られるように冷蔵庫に向かう。

「お茶いれよっか」

 保奈美は返事を聞かずにポットを引き寄せる。

 知紘はさっきまで本当に帰るつもりだった。なのに、このままくつろいでしまっていいのだろうか。困惑したまま、知紘は冷蔵庫から二つのあんみつを取り出す。

「ほら」

 そう言って保奈美がお茶を入れて微笑んでいる。仕方なく、知紘は自分も机のそばに座った。

 あんみつには手書きの手紙が添えられていた。女将さんからの、感謝の気持ちらしい。達筆だった。本日はご宿泊ありがとうございます、と始まり、レディースプランのためにオリジナルに作っているデザートです、と続いている。

 おなかはいっぱいだし、頭の中も混乱していたけれど、添えられたスプーンですくうとゼリーはあんこの味で、甘すぎずおいしかった。

 これからどうしたらいいのだろう。保奈美はもくもくとゼリーを食べている。もう一度とりあえず風呂に入って、それから寝てしまおう。何も考えずに。

 きっと保奈美だって、さっき「いいよ」と言ったのは深い意味なんてないはずだ。

 そこまで考えてふと、女将さんの手紙が気にかかった。ゼリーは確かにおいしい。でも、保奈美は彼氏と泊まるつもりだったはずだ。女性二人だから、女性向けプランのデザートを出してくれたのだろうか。

「……もう別れてる」

 保奈美がぽつりと言った。

「彼氏。とっくに」

「いつ?」

「知紘、あのね」

「いつかって聞いてるの」

 彼氏と泊まるつもりで、急に自分は呼ばれただけだったはずだ。彼氏と何があったのかは聞かなかったけれど、たぶん喧嘩したのだろう。

 保奈美は今日、はしゃいでいた。非日常なところだから当然なのだとも思った。

 でもこんな風に、保奈美が彼氏の穴埋めで知紘を呼んだのは初めてだった。保奈美はいつだって、行きたいところがあるなら「行きたい」と言って素直に知紘を誘ってきたからだ。

「……この間、一緒にケーキバイキング行こうって誘ったのに、来てくれなかった」

 そうだ。ホテルで季節限定のケーキバイキングがあるというときだって、行きたいから一緒に行こうと誘ってきた。

「何言って……」

「私のことなんてどうでもいいんでしょ、彼女できたから」

 保奈美はすねたような顔で、こちらを見ていた。何を言われているのかよくわからなかった。

「それは都合が」

「今日は? 今日は都合、悪かった? よかった?」

 カヨとの予定があったことは、保奈美には言っていない。でも、見透かしたように保奈美はこちらを見ていた。

「別に旅行くらい、ちゃんと日程調整して……」

「彼女を優先して? 調整? 冗談でしょ?」

 保奈美は小さな笑い声を上げた。

 知紘は呆然とする。保奈美はいつも自然体で、こちらを好きに振り回してきて……知紘の恋心なんて平気で知らんぷりしていた。何も知らないという顔をして。今目の前にいるのは本当に彼女なのだろうか。

「今すぐ彼女と別れて」

 でも、確かにこれが保奈美だとわかってもいる。わがままで、人を振り回すことなんて何とも思わない。自分が世界の中心で、大事にされて当然だと思っている。

 知紘の付き合っている彼女なんかより。

 本当になんて人のことを好きになってしまったんだろう。

 知紘は操られるみたいにカバンから携帯電話を取り出す。何もこの先の保証なんてない。どうしてと保奈美に聞き返すべきかもしれない。でも、どうせ選択肢などないのだ。

 ――私は保奈美の好きにされる以外、どうしようもできない。

「先に温泉入ってるね」

 そう言って保奈美はにこりと笑った。

 

 

 柔らかい乳房に触れる。カヨもふくよかなタイプだけれど、たぶん保奈美の方が胸は大きい。

「他の女と比較したら殺すから」

 そんな知紘の気持ちを読み取ったかのように保奈美は言う。

「何も言ってないよ」

「考えたでしょ?」

 部屋付きの露天風呂は小さく、二人で最初に入ったときも、身体が触れないようにするので精一杯だった。でも今はもう違う。

 触れても、保奈美は嫌がらない。お団子にまとめた髪からはやっぱりほつれ毛が首筋に落ちている。

 その白い首筋に、知紘はキスを落とす。

「ずっと、こうしたかった……」

「……っ」

 柔らかい乳房をもみしだきながらそうすると、保奈美の身体は震えた。自分の腕の中に彼女がいるなんて、奇跡だと思う。キスを首筋から背中にかけて落としていく。

「……やっ」

 胸の先端に指を這わせると、そこはもう硬くなっていた。こりこりと刺激してやると、保奈美は逃れようとするかのように身体を動かす。湯が少し桶から漏れる。

「かわいい」

「……知紘、なんか、いつもと違う」

 振り向いた保奈美の顔は困ったように赤い。その唇に知紘は深く口づける。

「んん……っ」

 舌で前歯を撫で、より深く口内を探る。角度を変えて貪ると、保奈美は甘いため息を吐いた。

「っ、ぁ……」

 保奈美の身体はどこも柔らかい。あちこちを撫でながら、深くキスを続けた。とりわけ乳首の先端に触れられると保奈美は弱いようで、必死に押し殺した声を漏らす。

「……っ」

 ここは離れではあるとはいえ、付近には同じような宿泊用の建物がある。あまり大きな声を出すと聞こえてしまうかもしれない。

「……のぼせそう」

 保奈美がかろうじて言った。溺れる人がそうするみたいに知紘の腕を掴んでいる。声は聞いたことがないくらい、か細かった。

 

 

「浴衣、脱がしたかったな」

 風呂から出てバスタオルで水滴をぬぐい、そのまま抱き合った。

「知紘がこんなにエロいなんて知らなかった……」

 それはこちらのせりふだと思う。保奈美の身体はどこも敏感で、撫でたりキスをしたりすると耐えられないというように甘い声をもらし、震えた。

「ずっと、エロいことばっか考えてたよ」

「……それは、たまにわかってたけど」

 やっぱりわかってたのか、と思う。そんなに露骨な目で見ていたとか、そういうことではないと思う。保奈美は何も気にしていない様子に見えていた。

 でも、最初からきっと知っていたのだ。

「あ……っ、や」

 何一つ身につけていない下半身に指を伸ばすと、そこはどろりと濡れて柔らかかった。

「ああ……っ」

 胸の先を口に含み、舌で転がしながら同時に指で奥を探ると、保奈美はこらえられないというように声をもらした。

「もう窓閉めたから、声出しても大丈夫だよ」

「やだ……っ、だ、め」

 普段は気丈な彼女の表情も声もとろけている。自分の舌や指でそうなっているのだと思うと、たまらなかった。もっと感じさせてやりたい。

「保奈美」

 指を沈ませると、彼女は潜めた息を吐いた。

「あ……っ」

 か細い声がもれる。濡れた壁を擦ってやると、彼女の身体は身もだえする。胸の先はつんと尖って、もっと触ってくれと訴えているかのようだった。

 ぐりぐりと刺激してやると、びくんと彼女の身体は震える。私は指を二本に増やし、彼女の中を行き来させる。

「あ……っ、や」

「好きだよ、保奈美」

 もう今すぐにでも保奈美は達してしまいそうだった。私は快感をこらえている彼女の唇にキスをする。

「ん……っ」

 肌を触れあわせているのが気持ちよかった。彼女の肌はどこもすべすべしている。温泉の効果なのかもしれない。

「やぁ……っ、もうっ」

 知紘の手から逃れようとするかのように、保奈美が身体を引きかける。

「気持ちよくない?」

「ちが……」

 保奈美は潤んだ目で知紘を睨み付けてくる。そんな顔をしたら逆効果だとわかっているのだろうか。

「気持ち、よすぎるから……やめて」

 知紘は一瞬、彼女の歴代彼氏たちのことを思いそうになって、すぐに思考を止める。彼女がモテてきたのは事実だ。でも、今は知紘の手の中にいる。

 こんな風になれるなんて思っていなかったのに。

 思い切り擦り上げ、深い場所を刺激すると、彼女はびくびくと痙攣するようにして達した。

「ああ……っ」

 そうしてしばらくしてからも、ずっとぼんやりした顔をしていた。

「大丈夫?」

「無理……」

 知紘は彼女の頬を撫でる。そんな刺激にすら、彼女はびくりと反応していた。

「だめ……っ」

「どうしたの?」

「なんか、変……」

 いったばかりの彼女は、どこもかしこも敏感だった。腰のあたりを撫でただけで、か細い喘ぎ声を漏らす。

 こんな反応を見せられて、知紘だって冷静でいられるわけがない。何度も彼女の身体に深く溺れ、繰り返し好きだと囁いた。

 

 

 翌朝、一人で先に大浴場に入ってきたという保奈美はけろりとした顔をしていた。

「起こしてくれればよかったのに」

「何か、恥ずかしいから」

 確かに知紘も、大浴場で彼女の身体を見て冷静でいられるかはわからなかった。

 ぼんやりと顔を洗っていると、女将さんが朝食を運び込み始める。

 変な気分だった。知紘にとっては世界が変わってしまうような大事件が起きたのに、当たり前のように新しい朝が始まっている。女将さんは、知紘と保奈美の間で昨日どんなことがあったのか、想像もしないだろう。

 朝食は鮭と納豆、海苔、味噌汁といったいかにも旅館の朝食というメニューだった。

「おなか減っちゃった」

 運動したからね、という言葉はちょっとオヤジっぽいかと思って飲み込む。

 それにしてもどうして急に、わざわざ温泉に呼んでまで知紘を受け入れるつもりになったのか。どうしても気になって尋ねる。

「……だって、ケーキバイキングのときだけじゃなくて、前のカラオケも、アフタヌーンティーも、断ったじゃない」

 保奈美は知紘の好意を知っていて……でも、受け入れるつもりなんてないのだと思っていた。

「それはお互い社会人なんだからしょうがないでしょ」

 知紘が保奈美と知り合ったのは高校生の時だ。学生の頃とはどうしたって生活は変わる。そんなこと、彼女だって百も承知のはずだった。

「でも、都合が絶対につかないなんてことないじゃない。優先順位の問題でしょ」

 何よりも自分を最優先にしろと言っているのか。呆れるより先に感心してしまう。

 保奈美はおなかが空いたと言っていた通り、ぱくぱくとご飯を食べている。保奈美はもっと、食が細いのかと思っていた。

「何?」

 知紘の視線を感じたのか彼女は言う。

 まだ化粧はしていなくて、髪は下ろしたままだ。でも、彼女はきれいだった。

「別に」

 

 

 朝食を下げてもらってからもまだ少し時間があったので、二人で最後に、部屋付きの露天風呂に入ることにした。

 知紘はまた不安になってくる。保奈美は、彼女と別れろと言い、知紘は言われた通りにそうした。でも、彼女は付き合ってくれるのか。

 お互い無言のまま、明るくなってきている海を眺める。

 先に口を開いたのは保奈美だった。

「私が言ったこと覚えてる?」

「何が?」

 軽く肩をたたかれた。ふざけたつもりではなかったのだが。保奈美は知紘を睨み付けていた。今は、髪を高いところに結んでいる。

「彼女と別れてって話」

「別れたよ。でも保奈美は……私と付き合ってくれる?」

「付き合うつもりもないのにあんなことしたの!?」

 急に保奈美が立ち上がったので、知紘はびっくりする。

「えっ」

「信じられない」

「いやそうじゃないって」

 浴槽から出て行こうとする保奈美を無理やり引っ張って、知紘は腕の中に引き込んだ。しっとりと濡れた肌を抱きしめる。

「ちゃんと言ってなかったなと思って」

「……うん」

「だって保奈美、モテるし、私のことなんて興味ないんだろうって思ってたから……」

 こうして旅行に誘ってきたのだって、他に代わりが見つからなくて、誰でもよくてなのだと思っていた。知紘の告白なんてなんとも思ってなくて、女友達で、可能性なんてないのだと。

「彼女がいるって聞いて……すっごくむかついた」

 保奈美はぼそりと言った。

「……うん」

「こんな思いするくらいなら、どうして私が知紘の彼女にならなかったんだろって思って」

 保奈美は複雑な女だ、と思っていた。でもこうして語られる彼女の気持ちはあっけないほど単純で、知紘はつい笑ってしまいそうになった。

「何!?」

 その気配を感じたのか、振り向いた保奈美が睨み付けてくる。

「何でもない」

 知紘は彼女の首筋を掴み、そのまま彼女を引き寄せてキスをする。首筋の濡れた後れ毛を指先で撫でながら。

 のぼせないうちにちゃんと上がらないと、と消えそうになる理性の片隅で思った。