礼のことを、一部の男子は氷の女と呼んだ。感情があまり顔に出ないからだ。

 礼と私は幼馴染だ。気遣い屋で優等生の兄と、それからとろいとかマイペースだと言われる私。

 同じマンションに住む私たちは、小さい頃からずっと三人で遊んできた。

 私と礼は同い年で、兄は一つ年上だ。でも、年齢も性別もほとんど気にしたことがない。鬼ごっこからテレビゲーム、秘密基地作りや川遊びまで、三人でいれば何でもできた。

 私たちは三人でいて、それが当たり前だった。

 ずっとずっと、そうなのだと思っていた。

 

「はぁ……」

 

 今日は私の誕生日だ。だけど目が覚めたときからずっと、ゆううつだった。

 昨日、礼と兄から聞かされた衝撃的な事実が頭に取り憑いて離れない。

 

「ありえないでしょ……」

「何言ってんの、さっさとご飯食べちゃいなさい」

 

 朝食のテーブルには母一人しかいなかった。

 

「兄貴は?」

「もうとっくに朝練。知ってるでしょ」

「はぁあ」

「ため息つかないで」

 

 母は厳しい顔つきで言う。でも、仕方がないと思う。

 昨日、幼馴染みの礼が兄と付き合い始めた。

 年子の兄は高校三年生だ。まぁ、妹のひいき目を抜きにしても悪い男ではない。ちょっと頭でっかちで気弱なところはあるけれど、いいやつだ。

 でもよりにもよって、礼と付き合うのがなんで私の兄なのか。もっと違う相手だったら、たぶん祝福できていた。……いや、そうだろうか。もうよくわからなかった。

 

「水紀、誕生日でしょう、今日」

「うん……」

「だったらさっさと学校行ってさっさと帰ってきなさい。お兄ちゃん、またお祝い用意してるでしょ」

 

 誕生日は毎年、礼と兄に祝ってもらっている。ケーキとサプライズのプレゼントがいつも楽しみだった。

 でも、カップルの二人になんて祝われたくない。

 

「……誕生日、延期してくれないかな」

「何言ってんの」

 

 歯車が狂う。私はトーストを喉に流しこみ、ぼんやりとしながら制服に腕を通す。

 昨日と同じ今日が、いつまでも続くのだと思っていた。鏡の中に制服姿の私がうつっている。

 確かに自分たちはもう高校生になった。いつまでも子供ではいられない。彼女と彼氏とか、そういう話も出てくるのはわかる。でも、よりによって二人が付き合い始めるとは思わなかった。

 

「おはよう」

 

 とんでもないことを打ち明けてきたばかりだというのに、いつも待ち合わせる交差点で礼は涼しい顔をしていた。

 

「……おはよ」

 

 礼は長い黒髪で、体温のなさそうな白い肌をしている。

 

「とりあえず、誕生日おめでとう」

 

 大してめでたくもなさそうに礼は言う。でもこれはいつものことだ。彼女にはあまり表情のバリエーションがない。

 だから、一部では怖い女だとか貞子だとか人形みたいだとか、いろいろ言われているのも知っている。

 

「それなんだけどさ。やめにしない?」

「誕生日を?」

「そうじゃなくて、お祝い」

 

 祝ってもらう側が言うことではないとはわかっていた。でもやっぱり、納得がいかなかった。

 

「どうして?」

「……いや、やっぱ兄貴も勉強と部活で忙しいし」

「そんなこと言ってなかったけど」

 

 礼の何気ない言葉にどきりとする。何しろ二人は付き合っているのだ。私抜きで話をすることだってたくさんあるだろう。

 いきなり壁にぶつかり、私はもごもごと言う。

 

「私も期末試験の勉強したいし」

「何を言ってるの、急に。水紀が勉強したいだなんて、熱でも出た?」

 

 私は困り果ててしまう。誕生日を祝ってもらえるのは嬉しいはずだった。でも、付き合い始めた二人から祝福されるなんてしんどい。どうしてこんなにしんどく感じるのか、うまく言葉にできない。

 

「私は水紀の誕生日、お祝いしたい」

 

 そうまっすぐに言いながら礼はにこりともしない。それが彼女にとってはいつものことだった。さらりとまっすぐな黒髪が揺れる。彼女の目もまた、吸い込まれそうに黒い。

 

「え、あ……うん」

 

 私はなぜかどぎまぎしてしまう。人形みたい、と言われるのは礼の顔立ちがすごく整っているからでもある。そんなことはずっと前から知っている。飽きるほど見てきた顔のはずだった。

 どうして兄なのだろう。なぜよりによって、二人が付き合い始めるのか。私ひとりだけ取り残されてしまったから、こんなに複雑な気持ちになるのだろうか。

 

「大丈夫?」

「あ、うん。体調が悪いとかじゃないから……」

 

 それから私たちの間には沈黙が落ちた。礼は寡黙なタイプで、いつも私がよく喋る。礼は黙って聞いてくれて、私が意見を聞きたいときには適切に言葉を挟んでくれる。それがいつものことだった。

 だけど今日、私は何を話していいのかわからなかった。

 ほとんど無言のまま歩き続け、学校の前にまで来たときにはほっとしていた。 

 

「水紀、どうかしたの」

「何でもない」

「じゃあ、お祝いは大丈夫ね」

「うん……」

 

 クラスメイトが私たちを見つけて声をかけてくる。いつも通りの一日が始まろうとしていた。

 

 ・

 

 授業中もずっと、私は上の空だった。どうしても兄と礼のことばかり考えてしまう。

 

「俺たち、付き合うことになったから」

 

 昨日、兄がそれを口にしたのは、よりによって私たちの母親もいるときだった。

 

「まぁ、おめでとう……!」

 

 母は昔からよく、礼のことを美人だとか、うちの息子の嫁になってくれればいいのにと言っていた。だから彼女が喜ぶのは目に見えていたことだった。

 

「え……なんで?」

 

 私はとっさに聞いてしまった。「なんで」も何もないのだろう。でも、わからなかったのだ。

 

「お似合いだと思ってたのよ、もうまったく」

 

 困っているのは私一人だった。ああそうだ、だから今日は彼らの交際祝いでもあるのかもしれない。

 兄は照れたように笑っていたが、礼はいつも通りだった。何を考えているのかわからないと言われる無表情のまま。それでも、私はだいぶ彼女の表情を読み取れる方だと思う。

 近くにいると、同じ無表情でも微妙な違いがあるのがわかる。実はむっとしていたり、喜んでいたり……そういう彼女の機微を、私はかなりわかるつもりでいた。

 でも昨日は、よくわからなかった。照れているのか、不本意なのか、それとも何とも思っていないのか。近くで見ても、全然わからなかった。

 

「水紀も早くいいひと見つかるといいわね」

 

 母からはそんな言葉までもらってしまった。私ひとりだけが呆然としたまま、おめでとうの一言も言えなかった。薄情なやつだと礼は思っているだろうか。

 

「はぁ……」

 

 確かに兄の悠一は目立ってイケメンではないが、見た目も悪くはない。

 吹奏楽部に入っていて、ずっとクラリネットを吹いている。いろいろ気が回る方だし、成績もよく、友人も多い。

 特に部活をすることもなく、日がなだらだらしがちな私と比べたら、明らかにおすすめの案件だ。

 考えているうちに落ち込んでくる。

 

「水紀、やっぱりどこか悪いの?」

「何でもない……」

 

 礼とは同じクラスだが、席はだいぶ遠い。やっと休み時間に彼女と顔を合わせているというのに、私はまた兄のことを考えてしまう。

 私のくせっ毛と違い、礼の髪はさらさらとまっすぐだ。礼は、いつも冷たい視線を浴びせられている同じクラスの男の子たちからは怖がられがちだけれど、別の高校の人から告白されているところを見たことがある。美人なので、モテるのだ。

 

「聞いていい? いつくらいから、兄貴のことありかなって思うようになったの?」

 

 クラスの他の子たちはまだこの交際について知らないようだったので、私は声をひそめた。礼に彼氏ができたとなったら、みんな大騒ぎだろう。

 

「最近まであまり考えたことはなかった」

「え、そうなの」

 

 実はずっと前から好きで、と言われなくてよかった。どれほど前から二人のことをわかっていなかったのか、邪魔をしてきたのかと落ち込むところだった。

 

「でもじゃあ、なんで?」

 

 昨日の報告を聞いても、よくわからなかったのは付き合うことにしたきっかけだ。普通に考えてどちらかが告白したはずなのだが、二人とも言葉を濁してしまい、はっきりとは言わなかった。

 よほど私には言えないような恥ずかしい告白だったのだろうか。

 百歩譲って、兄が告白したならまだわかる。でもまさか礼から告白したのだったら。

 

「……他の人に取られたくないって思ったからかな」

 

 礼はぼそりと言った。

 

「え?」

「だってそうでしょ。もう子供じゃないんだから」

 

 礼は私ではなく、どこか遠いところを見ているみたいだった。

 私は礼が、誰かと付き合い始めるなんて思っていなかった。年頃の女の子として、恋バナを彼女に振ってみたこともある。でも、礼はまるで興味がなさそうだった。

 

「じゃあ、礼がずっと告白を断ってたのは兄貴のこと好きだったから、というわけじゃないの?」

 

 告白された回数なら、兄より私より礼が断トツ一位だろう。一部では怖がられている礼だが、それでもやっぱりファンも多い。礼と付き合えるなら何だってするという男子は少なくないだろう。

 

「違う」

 

 よくわからなかった。礼にとって前に告白してきた人たちと、兄はどう違っているというのだろう。

 

「水紀は、『取られたくない』って気持ち、わかる?」

「私?」

 

 礼は鋭い目で私を見ていた。礼はいつも無表情で愛想がない。でも、顔に出にくいだけで、豊かな感情があることを私は知っている。

 礼は絶対にどんな相手から告白されても断った。

 

「わからなくはない、と思うよ」

 

 だから、誰かと付き合ったりしないのだろうと勝手に思っていた。

 

「ふぅん」

「それより、兄貴のどこがいいの?」

「……妹思いだし」

「そう?」

 

 というか、仮にそうだとしてもそれは惚れる理由にはならない気がする。

 

「あと、優しい」

 

 まるで私の疑問を察したかのように、明らかについでだろうというように付け加える。

 

「まぁ、優柔不断なとこはあるよね」

「そうじゃなくて」

 

 私たちは小さい頃から、三人でよく遊んでいた。私の親も共働きだし、礼の親も不在がちだったから自然なことだった。何度も三人で一緒に寝たこともある。色恋沙汰の気配など私はみじんも感じなかった。

 

「優しいよ」

 

 礼はもう一度繰り返した。だけどそうやって強調されればされるほど、私にはよくわからなかった。

 

「水紀こそ、どうなの」

「どうって」

「じゃあ私も彼氏作ろ、って思ったりしない?」

「ないない」

 

 私は苦笑いするしかない。そんな風に簡単に彼氏ができれば苦労はしない。私は礼と違って特別美人でもない。兄と違って部活を熱心にやっているわけではないし、成績もそれほどよくない。ぱっとしない、どこにでもいる女の子でしかない。

 

「好きな人は?」

「え?」

「取られたくない人、いないの」

 

 礼は奥底まで見透かそうとするような強い目で、私を見ていた。

 

「何言ってんの、いつも言ってるじゃん、いないって」

 

 私は嘘なんてついていない。なのに、責められているような気がしてしまう。

 もしそういう人ができたら一番に報告してくれと前から礼には言われている、当然私もそうするつもりだった。でも兄と付き合い始めた彼女に、私はたぶんもう報告なんてできない。

 

「ごめん、言ってなかったね。おめでとうって」

 

 私は無理やり笑った。

 

「水紀」

「じゃあまた放課後にね」

 

 礼と話すのは好きなのに、今はもうこれ以上彼女の顔を見ていたくなかった。どうしてだろう。今まで彼女といることに、こんな辛い気持ちを抱いたことはなかった。

 わけがわからない。どうして二人は付き合い始めたのか。

 どうして、私はこんなに辛いのか。全然、わけがわからない。

 

 ・

 

 家に帰れば、パーティが始まる。私の誕生日祝いと……たぶん礼と兄の交際記念のパーティが。

 私はすぐに家に帰る気になれなくて、一人で河原にある橋の下に来ていた。

 三人でよく遊んだあたりだった。缶蹴り、ボール遊び、本当は禁止されているけれど川遊び。ついこの間のような気がする。

 

「もう子供じゃない、か……」

 

 三人ともびしょ濡れになって、母に叱られた。

 日が陰ってきて、橋の下は少し肌寒かった。私は手近にあった石を川面に投げ入れる。橋の上には線路が通っているので、だいたい十分おきぐらいに轟音が聞こえる。小さい頃はこの音が少し怖くもあった。

 

「あーあ……」

 

 いっそこのまま今日は家に帰らず、どこか遠いところに行ってしまいたい。でも、私はまだ大人ではなく、そんな自由はない。

 さっきから携帯電話が震えている。礼からだろうか、と思って取り出すと、ちょうど兄からかかってきているところだった。

 

「何?」

「おい、お前どこほっつき歩いてんだよ」

 

 いつも通りの兄の声だった。背後にテレビの音がするから、たぶん家にいるのだろう。隣にはきっと礼もいるはずだ。

 私が何も言わないでいると、兄は大げさにため息をついた。

 

「そんなに悔しいのか」

「何言ってんの」

「友達取られたのが悔しいのかって言ってんだよ」

「何それ」

 

 まるで私が、だだをこねる子供みたいだ。そんなつもりなんてない。たった一歳しか違わないくせに、偉そうなことを言わないでほしい。

 

「なぁ」

「だって今までずっと一緒にいたのに」

 

 私は思わず口にしていた。

 

「一緒にいるのは礼より俺の方が長いだろ」

「兄貴は関係ないじゃん」

「どう関係ないんだよ。いいからさっさと戻ってこい」

「やだ、絶対戻んない」

「おいお前今どこにいんだ」

 

 私は無理やり通話を終え、携帯の電源を切った。もう兄の声なんて聞きたくなかった。

 もちろん、単純に一緒にいる時間が長いのは礼より兄だ。

 礼は私たちのマンションの、一番上の階に住んでいる。引っ越してきたのは彼女の方があとだった。年の近い子がいる、と聞かされてマンションのロビーで会った。

 初めて会ったとき、礼は黒いワンピースを着ていた。ずっとあとになって、彼女の祖母の葬式があったばかりだったのだと知った。白いレースの襟がついていた。

 となりにいる兄の緊張が手に取るように伝わってきた。私も同じだった。礼は人形みたいにきれいで、真っ白な肌をしていた。黒い服が、余計にそれを引き立てていた。

 物語の中に出てくるお姫様みたいだった。

 

「遊ぼう」

 

 先に声をかけたのは私だった。兄より早く、この子を連れ出したかった。

 私はどちらかといえば引っ込み思案なたちだけれど、どうしてだろう。このときは迷いがなかった。

 

「うん」

 

 礼はそう言って私の手を取った。その手のひらの温度に、人形じゃないんだとはっとした。

 当たり前だ。

 礼はちょっと人より感情が顔に出にくいけれど、それでも怒ったり笑ったりする、女の子だった。

 

「あーあ、なんでだろ」

 

 私たちは三人で、それでよかったはずだ。

 確かに高校生になって、少し関係は変わった。兄は部活動に割く時間が増えてあまり一緒には遊ばなくなった。私と礼と、登下校でも二人だけの時間が増えた。

 だから逆に、礼と兄は付き合い始めることを考えたのだろうか。

 でも、もし私が熱心に部活をやっていて、礼と兄とが一緒に登下校をすることになっていたとしても、同じことだったんじゃないだろうか。

 私たちは三人でいたはずだった。なのにいつのまにか、二人と一人になっている。

 

「礼……」

 

 私がもし男だったら、彼女と付き合い始めたのは私だっただろうか。考えても仕方がないことを考えてしまう。

 もし私にいたのが兄じゃなくて姉だったら?

 礼が男だったら?

 それだったら、私ははじかれずにいられた?

 何を考えているのだろう。今まで私は、誰かと付き合うことを真剣に考えたことはなかった。恋愛はまだ遠いどこかにある憧れのもので、私と関わってくるなんて思わなかったのだ。

 橋の上を列車が通ってがたがたと音を立てる。

 でも、本当は時間の問題だったのかもしれない。兄は来年には高校を卒業する。彼の志望校は地元の国立だが、どうなるかはわからない。そして私と礼も一年遅れて卒業する。まだ進路はちゃんと聞いていないけれど、高校を卒業したら礼とも会わないかもしれない。

 

 ――そんなの嫌だ。

 

 友達を取られて悔しい気持ちになるのだったら、普通だろうか、私の気持ちは、これは普通の範疇に入るのだろうか。考え始めると砂に足を取られたようにズブズブと飲み込まれていきそうになる。

 もし普通でないのだとしたら、私はこれからどんな顔をして礼に会えばいいのだろう。

 

「水紀」

 

 そう考えているときに、まさに彼女の声がした。

 一度家に帰ったのだろう。上品な紺色のワンピースを着ていた。初めて会ったときみたいで、私ははっとする。でも、あのときと違って体のラインがよくわかる服を、私は何となく気まずくて直視できない。

 

「ここにいたんだ」

「兄貴は?」

「家で待ってる」

 

 私は礼が、一人だけで来てくれたことにほっとしていた。

 

「ほら、早く家に帰ろう」

「私、今日は行けない」

「何を言っているの、あなたの誕生日パーティーじゃない」

「そうだとしても行けない」

 

 薄暗くなりかけた橋げたの下に、今は私と礼だけがいる。

 

「私、おかしいのかな」

 

 礼は幼い日と変わらずきれいだった。

 

「礼のこと、取られたみたいに感じる」

 

 友情と恋愛とがあって、恋愛の方が優先されるものなのだろうか。私はただ、礼とずっと一緒にいたい。何もしなくても、自然とそうできるのだと思っていた。でも、私たちは否応なく変わっていってしまう。

 

「おかしくない」

「だって私、二人のこと邪魔するかもよ。そんなの嫌でしょ」

「水紀」

「私だって、本当はちゃんとお祝いしたいのに、幸せになってって言いたいのに」

 

 こんなこと言いたくはなかった。母のように、おめでとうと言って張り切って花でもケーキでも買いに行きたかった。私は礼のことも兄のことも好きで、二人が幸せになれるならそれ以上の望みはないはずだった。

 だけど、どうしても祝えない。

 

「ごめん」

「……いいよ」

 

 ふっと、礼の手が私の肩に触れた。周囲は暗くなってきていて、でも礼の姿だけ浮かび上がるかのようだった。

 

「私、礼のこと、誰にも取られたくない」

 

 礼はやっぱりじっと、私のことを見ていた。ああ本当にきれいな子だなと思う。当たり前のようにそばにいられたのは、特別なことだったのに、私は気づいていなかった。

 

「兄貴と付き合うなんてやだ……」

 

 礼は何も言わない。

 

「兄貴だからじゃなくて、誰だとしても、どんな男でも女でも、やだ……」

「じゃあ、あなただったら?」

 

 礼はさらりと、感情を伺わせない声で言った。

 

「水紀と付き合うのだったら、どう?」

「どうって……」

「私はそれがいいんじゃないかと思うのだけれど」

「何言ってるの?」

 

 礼の顔が近づく。何が起きているのか私にはよくわからなかった。電車がまたがたがたと橋を揺らしている。轟音を鳴らして通り過ぎていく。

 柔らかい唇は一瞬触れて、そして離れていった。

 

「……え、あ、え?」

 

 礼は狼狽している私を見て、わずかに目を細めた。わかりにくいけれど、笑っている。

 なぜ、礼が私にキスをするのか。兄と付き合い始めたはずなのに。

 

「私こそ謝らなきゃ」

「礼が何も謝ることなんてない」

「あるの」

 

 そうして礼は、ゆっくりと言った。

 

「嘘なの。私と悠ちゃんが付き合い始めたっていうの」

 

 私はぽかんと口を開けてしまった。どう反応していいのかわからなかった。

 

「……嘘でしょ」

「今日の誕生日パーティで、嘘でした、ってばらすつもりだった」

「いやいやいや、待って」

「毎年、何かサプライズをしてたでしょう? 今年はネタ切れになってたからどうしようかって考えて、絶対驚くことにしようって相談して」

「マジで言ってんの?」

 

 確かに、毎年パーティには何らかのサプライズがあった。プレゼントが布団の中に隠してあったり、今年はパーティがないと言われたと思ったら、突然始まったり。でもさすがにこれはない。

 

「戻りましょう。そうしたらわかるから」

「ちょ、ちょっと待ってって」

 

 私は昨日、二人に聞かされてから眠れなかったし、ずっと取り憑かれたように悩んでいたのだ。こんなのってない。

 

「さすがにひどくない……!?」

「だから、謝らないとって言ったじゃない」

 

 礼は本当に悪いと思っているのか、しれっとした顔で言う。その顔を見ていると、私はどうしても怒りきれないからずるい。

 

「ごめんね」

 

 礼はそう言って、ふわりと私を抱擁した。私は棒立ちになったまま、固まっていることしかできなかった。昨日からやけにめまぐるしく心が動いていて、現実についていけない。

 

「ほら」

 

 困り果てた私を見て、礼は手を差し出した。呆然としたまま、私はその手を取ってしまう。

 家まではずっと手を繋いだまま二人で歩いた。橋げたの下ではよくわからなかったけれど、夕日はちょうど沈んでいくところで、川面に赤い色が照り映えていた。

 礼とは何も話さなかった。でも、彼女の手は温かかった。

 最初に彼女と出会った日もそうだった。繋いだ手が温かくて……それで、人形みたいな彼女をとても身近に感じたのだ。これからたくさん一緒に遊べると、わくわくしたことを思い出しながら、私は彼女の横顔を見ていた。

 

「やっと主役が帰ってきたぞ、おめでとう!」

 

 家に着くと、兄と母がクラッカーを手に持って待っていた。勉強用のホワイトボードに「嘘でした」と大きく書いてある。その脇になぜか下手くそなクマと花の絵が書いてあるのも、兄がはしゃいで笑っているのも、何もかも腹立たしかった。

 さすがにこんな嘘はない。でも、私は怒ってその場を立ち去ることもできなかった。礼は家の中に入っても、なぜか私の手を握ったままだったので。

 

「誕生日おめでとう、水紀」

 

 礼が間近でささやくように言う。

 私と彼女は一体、どうなってしまうのだろう。わからないまま、母が用意してくれたケーキのろうそくを吹き消す。

 私は三人の拍手に囲まれていた。嘘をつかれたことは腹立たしいけれど、結局は自分が許してしまうだろうこともわかっていた。だって、私は兄と礼が大好きだったし……二人が付き合っていないとわかって、本当はひどくほっとしていたから。

 ファーストキスだった。そう気づいたのはその日の夜になってからだった。

 昨日の夜も色々考えてしまって眠れなかったのに、今日もまたどきどきしてしまって、全然眠りにつけなかった。でもまた、明日になったら礼に会える。

 繋いでいた右手がまだふんわりと暖かい気がする。私は自分の手の甲に、そっとキスをしてみる。

 ちゃんと進路のことも聞こう、と思う。これから先も一緒にいられるように。私たちの関係がどう変わるのか、変わらないのかはわからないけれど……一緒にいることだけは、絶対に変えたくないから。

 

 ・

 

「はい、約束のもの」

 

 彼女はチケットを差し出した。プレミアがついていて、オークションで買ったら数万円はするだろうという品だ。

 奪い取るように悠一はそれを手にした。

 

「うまくいったんだよな?」

 

 家に帰ってきた水紀の様子はちょっと変だったけれど、まぁそれはいつものことなのでよくわからなかった。

 礼は何も答えない。こちらもやっぱりいつものように、ミステリアスな無表情だ。でもさすがに付き合いが長いので悠一もわかる。これは浮かれている顔だ。

 

「わが妹ながら、単純すぎて心配になるな……」

「大丈夫よ」

 

 昔から、苦労性で思い悩みがちな悠一と違い、妹の水紀は楽天家でマイペースだった。テストの日を忘れているなんてしょっちゅうで、遠足で景色に見とれていてバスに乗れずに取り残されたこともある。

 だから水紀は気づいていなかったようだけれど、悠一はとっくにわかっていた。三人でいても、いつも礼の目が彼女にだけ向いていることは。

 

「水紀には私がいるから」

「それが一番心配の種なんだけど……」

 

 やむを得ず礼に協力することになってしまったが、本当は関わり合うつもりなどなかったのだ。どれだけ礼が思いを募らせていようと、悠一が知ったことではない。正直なところ嫉妬もある。

 だがファンクラブの抽選も、一般販売も全滅だった。礼の父親はマスコミ勤務で、色々とツテがある。頼るものかと思っていたのに、目の前にニンジンをぶら下げられて抗えなかった。

 

「さすがに騙すのはひどかったんじゃないか」

「でも、許してくれた」

「まぁなぁ……」

 

 最初から礼が好きな相手は一人だけだ。でも、水紀はそのことにまるで気づいていなかった。悠一はとっくに気づいて、そして苦い初恋を終わらせたというのに。

 

「いいじゃない、うまくいったんだから」

 

 だから礼は強硬手段を取ることにしたらしい。

 礼の感情表現はわかりにくい。でも、気弱な自分よりもずっと激情家であることは知っている。

 

「うちの妹のこと、泣かしたら怒るからな」

「安心して、私も水紀を泣かすやつなんて死んでも許さないから」

 

 悠一はため息をつくしかない。礼の場合は冗談で言っていないのがよくわかる。

 

「でも大丈夫なのか、あの様子だとまだよくわかってない可能性あるぞ」

「それはおいおい進めていくから大丈夫」

 

 何をどんな風に進めていくのか想像したくない。いや、ちょっと想像してしまった。悠一は首を振る。

 

「ライブ、楽しんできてね」

「嬉しそうだな」

「嬉しいに決まってるじゃない」

 

 礼は一部で氷の女と言われている。そのくらい、いつも無表情だし冷静で、冷たい言葉を吐くからだ。

 

「キスしたときの水紀の顔ったら」

「おい、なんでもうキスまでしてんだよ」

「うるさい」

 

 だけど今日は、明らかにその無表情が崩れまくっていた。ずっと彼女の身近にいる悠一じゃなくてもさすがにここまでにやけていたらわかると思う。

 

「うるさいって何だよ。今まで言ったことない水紀のとっときの秘密、教えてやろうか」

「えっ」

 

 わかりやすく礼が動揺する。礼の取った方法は単純だった。悠一と付き合う振りをして、水紀の独占欲を刺激する。誰かのものになるとわかったら、どうしても気になるのが人のさがだろう。

 しかし、水紀も単純だと思ったけれど、礼も大概だ。

 

「何……?」

「秘密」

「わかった、次の取引材料ってことね」

 

 別に悠一はそんなつもりではなかったのだが、またライブチケットをもらえるならやぶさかではない。秘密は何か適当なことを探しておけばいいだろう。たいがいのことだと既に礼は知っているので秘密にならないのが困りものだが。

 

「礼の今日みたいな顔初めて見た」

 

 さすがに自覚があるのか、礼は一瞬眉根を寄せて冷たい顔になる。

 

「今日くらい浮かれたっていいでしょ。ずっと好きだったんだから」

「……ああ、うん」

 

 それは知っている。残念ながら失恋したのはもう十年も前のことだから。幼かった悠一の心はそれなりに傷ついたのだ。水紀にも礼にも教えたことはないし、今は吹っ切れているつもりだけれども。

 

「あ。水紀からだ」

 

 そう言って礼は携帯を取り出す。

 

「大変なのはこれからだぞ」

 

 礼はすっかり画面に見入っていてなにも耳に入っていないようだった。画面を見る彼女の表情といったら、他では絶対に見ることができないだろう。役得なのか損なのか、悠一にはわかりかねた。

 あの日マンションのロビーで会ったとき、一目で彼女に惹かれた。

 なのに、気が付くと彼女の手を取っていたのは妹だった。もしあのとき、と考えずにはいられないけれど、きっとそういう問題ではないのだろう。手を繋いで走り出した二人は楽しそうだった。大好きなおばあさんの葬式があったばかりで、落ち込んでいたという礼も。

 

「あーあ、俺も彼女欲しいなぁ」

 

 幸せそうな幼馴染のとなりで、悠一はひとりぼやくしかなかった。