「何これ?」

「もらった。水あげてもいいぞ」

 辻橋と住んでいた頃、彼女と行ったディナーの店でなぜか小さな鉢植えをもらったことがある。

 自分の部屋に置くのも何なので、リビングの日当たりの良さそうな場所に置いた。

「俺そういうの無理、絶対枯らす」

 だけど俺もろくに世話をせず、鉢植えはすぐにゴミになった。花も咲かせずに。何の植物だったのかまでは覚えていない。

 

 

 あのホテルの部屋は何だったのだろう。あそこだけ、まるで異世界だったような気がする。

 こんなことで悪夢が終わるわけがないだろうと思った。辻橋か、あるいは他の誰かにすぐ見つかると思っていたが、誰も俺を追ってはこなかった。拍子抜けするくらいあっさりと、外の世界はそこにあって、俺なんかのことには無関心だった。

 俺は当初、実家に戻るつもりだった。だけどずるずると引き伸ばしてネットカフェを点々とした。実家だと容易に足がつくだろうから、と言い訳をして。

 実家は嫌いだった。

 とにかくかつての俺の望みはとにかく早く家を出ることだった。父はストレスがあると俺を殴り、母は俺を助けなかった。ただ無言で、暴力の嵐が過ぎるのを待っていた。今ほど虐待に意識が向いている時代ではなく、父の外面がよかったこともあって、児童相談所に保護されたことはない。

 俺はとにかく実家を出たかった。自分だけの、安心な居場所が欲しかった。

 だから俺は大学では奨学金を得て、何とか交渉して叔父の家に住むことにした。

 当初、俺はできるだけ早く一人暮らしがしたくて必死にアルバイトをした。同級生たちのように、サークル活動にのめり込む余裕はなかった。もとから楽器やスポーツに打ち込んでいたわけでもない。授業は期待したほどは面白くなく、あまり興味が持てなかった。

 叔父との暮らしもまた、あまりうまくいかなかった。叔父は俺を殴ることはなかったが、翻訳関係の仕事をしておりほとんど常に家の中にいた。息が詰まった。

 俺は彼女の家に転がり込んだ。一人暮らし用の狭いアパートだ。快適とは言いがたかったが、自分と彼女だけの城だった。彼女の実家からの仕送りは多く、俺は家賃を払わないで済んだ。彼女が愚痴っぽく語る過保護な親の様子は、俺とは無縁なものだった。

 そうして家を得た俺は以前ほど必死に働く必要はなくなっていたが、もう授業にはついていけなかった。今更サークルに入るわけにもいかなかった。

 大学なんて、どうせ就職するまでの時間稼ぎだ。俺は頻繁に飲み歩くようになった。大学生なんて毎日誰かしらが飲んでいる。誘われればどんな飲み会にでも行った。

 芝居が好きなわけでもないのに、劇団の飲み会に紛れ込むようになったのもこの頃だ。彼らと飲むのは好きだった。大学中退、アルバイト、フリーター。就職なんて考えてもいない彼らを見ていると安心できた。俺はまだレールを外れてはいないし、普通の人生を送れていると思えた。

 その後も実家にはろくに戻ってない。

 父が死んだ今、実家に暮らしているのは母一人だった。俺にとっての脅威は何もないはずだったけれど、それでも戻りたくなかった。

 資金が尽きる前にと思い、ネットで探した日雇いの仕事に行った。現場仕事は初めてだったけれど、疲れる代わりに難しい要素はなく、一日体を動かすのはどこか爽快でもあった。

 そのうちに同じような日雇いの仕事をしている中年男性と知り合いになり、格安のアパートを紹介してもらった。部屋はヤニだらけで、あの高級ホテルの風呂場ほどの広さしかなかったが、文句は言えない。今の俺にとっては、屋根があるだけでもありがたかった。

 そのアパートの住人はほとんどが中高年の男性で、以前の俺だったら近づくのもためらわれるような人たちだった。朝からアルコールの匂いをさせていたり、競馬新聞をズボンのポケットに突っ込んでいたりした。

 俺は最初こそ、辻橋や彼のファンや、その他大勢の人によって見つかって糾弾されるのではないかとびくびくしていた。だけど俺を俺と認識して、攻撃してくるような人はいなかった。アパートの住人たちは安い酒やタバコ以外、何にも興味などなさそうだった。

 劇団の飲み会に紛れ込んだときにも似た、奇妙な安らぎを感じた。

 まともに社会人をしていた頃に比べれば、これ以上ないところまで落ちたと認識もしているのに、でも高級ホテルに居るときよりずっと居心地はよかった。誰も俺を知らない、俺を気にしていない。俺に期待をすることも、落胆することもない。

 辻橋が追ってこないのは、彼が死んだからだろうか。

 あるいはもう、俺のことなんてどうでもよくなったのか。わざわざぬいぐるみにメッセージまで忍ばせていた周到さと合わない気がしたけれど、そのちぐはぐさが辻橋らしい気もした。

 少なくとも俺の携帯に、辻橋からの連絡はなかった。もし仮に辻橋が死んだら魚見か誰かが動きそうなものだ。だけどたまに思い出したように見知らぬ人間から嫌がらせのメッセージがある他は、俺の携帯には何の連絡もなかった。

 俺はひたすら日雇いの仕事をこなし続けた。だいたいは工事現場での肉体労働だった。仕事の内容自体は単純だ。一日体を動かすことにもだんだん慣れてきた。何よりいいのは疲れていれば、スイッチを切るように眠りにつけることだ。暇な時間があっても、ろくなことは考えられないに決まっていた。

 一週間、二週間が過ぎた頃、携帯に航空会社から誕生日メッセージが送られてきた。以前チケットを取るときに登録したのだろう。

 別に今更、誕生日など思い出したくもなかった。何となくその夜は眠れなくて、俺は久しぶりに携帯でニュースを見た。株価が大きく値下がりしたことが扱われている。その他にも政治家の失言やゴミ問題や、俺とはまるで関係のない世界の事柄が並んでいた。

 当たり前かもしれないが、辻橋の名前はない。俺は仕方なく、検索窓にその名前を入力する。

〝辻橋湊〟

 俺の初めてのルームメイト。そして俺の人生を、めちゃくちゃにした男の名前。俺の知る限り、一番顔のよい男。

 もし辻橋とルームシェアをしていなかったなら、俺の人生はどうなっていたのだろうと、もう何度目かわからない思考を俺はくり返す。

 辻橋がいなかったら、部屋に住まわせてくれる彼女を何とかして見つけたかもしれない。そのまま惰性で結婚して子どもができて……。

 俺ははっとして画面に向き直る。ニュースサイトがすぐにひっかかった。間違えようもなく、辻橋の名前だ。

 密かに予想していたような、訃報ではなかった。

 逮捕されたと書かれている。容疑は薬物の所持だった。

 

 ・

 

 人に普通と思われるような人生ではなくても、胸を張れることがなくても、友人や恋人がいなくても、問題なく生きていける。俺は初めてそう悟る。

 同じアパートに住んでいる住人の顔ぶれはしばしば変わった。何となく顔を覚えても、またすぐにいなくなってしまう。数少ない例外はもともと俺にこのアパートを教えてくれた、伊澤という男だった。歯がほとんどなくて、いつも目元に目やにがある。年齢は六十代ぐらいに見えたが、もしかしたらもっと上かもしれなかった。

「今時の若者ってのは何もやんないんだな。酒、女、博打ってのは古いのかねぇ」

「はぁ……、まぁ、若くても好きなやつは好きだと思いますけどね」

 パチンコは大学時代にやったことがあるが、はまれなかった。唯一今も楽しんでいるのは酒くらいだろうか。今の俺の部屋にはテレビもない。

「女はどうよ、若いんだから」

 この状況で、誰か女性と付き合いたいなんてとても思えない。なけなしの金で風俗に通う男も多いようだったが、俺には興味がなかった。セックスに対する夢も興味ももうない。

 辻橋の逮捕は、もとはといえばホテルに呼んだ女性たちが原因のようだった。彼女たちを雇っていた男が捕まり、そこから芋づる状に辻橋まで捜査の手が伸びたのだ。何のために呼んだのかもよくわからない女性たちだった。あんなことをしなければ、何か問題が発覚するにしてももっと後だっただろうに。

「枯れてるねぇ……」

「何かないですかね、もっと他の趣味」

「盆栽でもやっとればいいんじゃない」

 伊澤は投げやりに言う。

「面白いんですかね……」

 辻橋は世の中にすっかり飽きられていた。

 あの夜以来、俺は暇なときはひたすら携帯で辻橋のことを調べていた。ニュースサイトから個人ブログ、掲示板からSNSまで辻橋について語られているあらゆる言葉を読みあさった。

 辻橋はすぐに釈放された。だが一ヶ月も絶たずに再逮捕された。また別のドラッグが見つかったのだ。

 辻橋が最初に逮捕された時には、それなりに注目も集めたし彼を擁護する意見も多かった。芸能界自体の汚染が議論され、辻橋は期待の新星のはずだったと喧伝された。

 今では辻橋を擁護する声は相当減った。辻橋が反省する様子を見せなかったこともあって、彼をかばう人間は少なくなっていた。辻橋はそれと同じくして、過去の性被害に対する告発が嘘だったと言った。話題作り、名前を売るための行為だった、と。

 彼が被害を告発したときほどには注目されなかった。嘘だと言うこと自体が新たな話題作りだろうとも言われた。ドラッグで頭がおかしくなっている、脅されている、最初から陰謀だった……多少の言及はあっても、辻橋はもう、さして注目もされない旬の過ぎた人間になっていた。

 そして俺の名誉が回復されたかというと、そんなことはない。騒ぎのことは覚えていても、告発されたのが誰で、どんな目にあったかなど誰も覚えてはいない。俺に謝罪をしてくるような人間は一人もいなかった。嫌がらせのメールがまた少し増えた程度だ。

 俺が家を借りていた不動産会社は自己破産したらしい。代理人だという弁護士から連絡があったが、ほとんど戻ってくるものはないようだった。もはやかつての持ち物などどうでもよかった。

 辻橋に何がなんでも、嘘だと言わせてやると思っていたが、実際に彼がそうするとは思っていなかった。

 達成感はまるでなかった。

 失われたものは、なにひとつ戻って来ない。

 俺の人生に決定的なことはもう起きてしまって、どうしようもないのだ。俺はこうしてひっそりと生きていくしかないのだと思う。

 俺がこだわっていたまっとうな人生とは何だったのだろう。デスクに毎日座っていても、上司の意向を伺って三歩進んで三歩下がるような仕事ばかりだった。働いて、結婚すれば一人前になれる気がしていた。今思えば、俺はあまりに漠然とした幸せな家庭のイメージしか持っていなかった。

 結婚を意識して当時の彼女と付き合い、婚約までしたけれど、今となっては彼女を思い出すこともほとんどない。

 ――この登場人物の意図を考えなさい。

 やりたいことも、夢も何もなくても生きてはいける。

 伊澤の言葉を真に受けたというわけではなかったが、俺は近所の百円ショップで小さな観葉植物を買った。南の国の生まれだというその植物は、小さい鉢にちょこんと納まっている。

 あのとき、辻橋は本当に俺に殺されたかったのだろうか。

 俺に、人の道を外させれば満足だったのか。

 あそこまでして俺と会って、それで辻橋に何か得るものがあったのか。

 相変わらず、俺は辻橋のことを考えている。ぐるぐるとどこにもたどり着かない、答えのない思考を繰り返す。

 「何もしない」それが、辻橋のこだわっているキーワードだった気がした。

 俺は、何もしなかった?

 彼は俺に、何かをさせたかったのか。

 もう試験は終わったのに、答えられなかった問題を延々、考え続けているみたいだ。もう点を取ることはできないのに。考えたくないのに、どうしても考えてしまう。

 うんざりはするけれど、不思議と俺の中に死にたい思いはもうなかった。

 

 ・

 

 日雇いの仕事の給料は決してよいわけではないが、使いみちがないので意外と金は溜まった。

 俺は近所の安い居酒屋でたまに酒を飲むのを楽しみにするようになった。線引きがしたくて、自分の部屋では飲まないと決めていた。その方が安いのはわかっていたが、歯止めがかからなくなるのが怖かった。

 その店は中央にコの字型のカウンターがあり、背後のテレビではいつも競馬が流れていた。中年の店員は適度に放っておいてくれる。日によっては、一言二言雑談をすることもあった。

 同じようにカウンターには、無言で酒を飲み続けている男の一人客がぽつぽついる。

 その日、テレビでは競馬ではなくニュースが流れていた。何とかという若手俳優が新しい映画に主演するのでその宣伝のようだった。俺はその俳優に見覚えがあることに気づく。ホテルで映画を見た、辻橋が知り合いだと言っていた男だ。すっかり渋い外見になった彼は、映画の見どころを淡々と語っていた。

 もはやテレビに辻橋が登場することはない。

 まるで辻橋湊なんていなかったみたいだった。テレビでは別の若手俳優がイケメン俳優と持ち上げられ、にこやかな笑みを振りまく。

 まともな仕事ができる俳優なんていくらでもいる。辻橋みたいな男を使う危ない橋は誰も二度と渡りたくないだろう。

 だが辻橋に、他の仕事なんてできるのだろうか。確かアルバイトもあまり続いていなかったはずだ。辻橋は数字も苦手だし、細かい作業も得意ではない。魚見あたりが面倒を見ているのだろうか。

 辻橋のことを考えるのをやめよう、やめようと思い続けていた時期もあったが、そのうちに俺は諦めた。

 考えることが苦痛であっても、どうしたってやめることはできないこともある。

 かさぶたを何度かはがして血を流しながらでないと、きっと癒えない傷もある。辻橋は今の俺のそばにはいないけれど、俺の頭の中からは消えない。もうそういう存在になってしまったのだ。

 適度に酔って久しぶりに心地良い気持ちでアパートに戻ると、入り口に伊澤がいた。

「俺は親切だから教えてやるが、変な男がお前を探しに来てたぞ」

 俺は借金はしていない。取り立ての荒っぽい声をこのアパートでも聞くことはあるが、俺とは無縁なはずだった。

「どんなやつでしたか、服装とか」

 とっさに頭に浮かんだのは辻橋だった。辻橋がわざわざこんなところまで俺を探しに来ることはないとわかっているのに。そもそも彼は再保釈されたのだったか。今どんな状況にあるのか、正確にはよくわからなかった。

「スーツを着た真面目そうな男だった」

 辻橋がスーツを着る可能性もないではないが、恐らく違うだろう。

 母や親族が俺を探すとも思えない。もやもやしたが、いずれわかるだろうと思うしかなかった。

 部屋に戻ると、暗い部屋の中で観葉植物が俺を出迎えた。

 ビジネスホテルの一室みたいな狭く、古い部屋だ。安い飯を食べ、肉体労働をして、たまに銭湯の広い風呂に入る。こんな部屋でも植物はゆっくり育っていく。思い描いていたのとはまるで違う生活だけれど、でも辛いことは多くはない。

 元から俺にはなりたいものもなかったのだ。嫌なこと、辛いことが避けられればそれでいいのかもしれない。

 テレビもない部屋に一人でいると時間が余る。ネットサーフィンを続けることにも限界があった。することもないし、眠ってしまおうかと思ったときだった。部屋のドアが乱暴に叩かれる。

 ドアを叩く音はやまない。いきなり殴りかかってくるような危ない奴だったら、どうするか。他の住民は見て見ない振りをするだろう。

 俺はそっとのぞき窓から外を見る。スーツを着た男だ。最初は誰だかわからなかったけれど、じきに気づいた。魚見だ。

「こんな時間に何の用だ」

 俺はドアを開けると言った。薄暗い部屋と比べると、埃っぽい廊下でも眩しすぎるくらいだった。

「話がある」

 魚見は以前と何も変わっていないように見えた。辻橋の周囲は色々と大変だっただろうから、もっとやつれていてもおかしくない。

 魚見を押し返すこともできただろう。だがそうしなかったのは、もうどうでもよかったからかもしれない。俺は彼を部屋に入れた。

 彼はまるで初めての観光地に来たみたいに、あちこち視線をやっている。取り立ててものもない、殺風景な部屋にスーツの男は違和感があった。

 背広を着て働くような男とは、全然違う世界に今の俺は生きているのだ。今更ながらそう実感する。

 辻橋がもう俳優をしていない以上、彼も無職になったのだろうか。あるいは他の俳優のマネジメントをしているのか。

「要件は」

 俺はすぐに切り出した。魚見相手に、世間話などする気にもなれなかった。

「探してたんだ、手間かけさせるな」

 魚見は忌々しそうに呟く。

「お前が俺を?」

「好きでやってんじゃない、湊さんのためだ」

 魚見が来たと言うことは辻橋に関連する話なのだろうと予想はしていた。

「湊さんは、もうすぐ死ぬかもしれない」

 俺は何の衝撃も受けなかった。辻橋がどこで何をしようと、俺には関係がない。

「だから?」

「お前みたいな……クソ野郎に、最後のチャンスをやる」

 眉根を寄せた魚見は、本気で悔しそうだった。そこまで嫌なら、俺のところなんて来なければいいのに。

「俺に? チャンス? 何言ってんだ」

 俺は鼻で笑う。もう勝手にジャッジされるのはうんざりだ。

 魚見は眼鏡の奥の目を、神経質そうに何度もまばたきする。

「あの告発が嘘だって辻橋も認めた。お前だってわかってんだろ」

 魚見はもともと、辻橋の発言を真に受けて俺が彼を暴行したのだと信じ切っていた。魚見は辻橋の言うことなら何だって聞くんだろう。どうせ魚見に俺の言葉は通じない。

「共犯じゃないなら、なんで気づかなかったんだよ!」

 魚見は悲痛な声を上げる。

 俺は初めて、何かがおかしいと感じる。

「……何を」

「あの頃の湊さんはボロボロだった」

「あの頃?」

 俺と住んでいたとき、辻橋がそこまでひどい状態だったことはない。絶対に毎日顔を合わせていたかというと怪しいけれど、そうだったと思う。

「いつの話だ」

 魚見は俺を騙そうとしているのだろうか。これはまだ、辻橋の罠の続きなのか。

「白々しいな、いい加減にしろ。百歩譲って、お前は主犯じゃなかったかもしれない。でも、助けなかったんだろ」

 ――何もしなかった。

 もし辻橋がそこまで苦しんでいることがあったのなら、さすがに俺だって気づいたはずだ。

 まるでパラレルワールドにでも迷い込んでしまったみたいだ。俺の知る現実と、魚味が語るそれとが噛み合わない。

「あれから湊さんはおかしくなった」

 淡々と語る魚見は、もはや俺の方は見ていなかった。

 魚見はもちろん、辻橋の味方だ。俺を貶めることに躊躇はしないだろう。

 なんで魚見はこれほど辻橋に盲目的になれるのだろう。辻橋が同じだけの感情を返してくれることはないだろうに。

「あんたは湊さんを見てなかった、ちっとも」

 それから魚見はある病院の名前を告げた。都心にある有名な病院だった。

 気がつくと魚見は部屋を出ていっていた。部屋には俺と観葉植物だけが取り残される。

 わからなかった。

 辻橋がボロボロになっていたという時期も、何かが起きたことも、心当たりがまったくない。それも彼の嘘なのだろうか。魚見は何かを信じ込まされているのか。辻橋と魚見のどちらも信用などできない。

 俺を現実に引き戻したのは、携帯への着信だった。このタイミングだから、魚見からかと思った。ほんの少しでもヒントが欲しい気持ちから俺は携帯に飛びつく。

 電話は叔父からだった。母が亡くなったという連絡だった。

 

 ・

 

 俺が死んだ時、俺の葬式は誰がするのだろうか。立派な式をしてほしいわけではない。だが、無縁仏として処理されるのはさすがに寂しい。

 その点、生前の母は手際がよかった。母は自分の葬儀費用を積み立て、誰を呼ぶかも完璧に決めていた。喪主は叔父だったし、思った以上に俺のすることはなかった。俺の記憶の中では母は、黙って家事をしているだけの人だった。ここまで実務能力があるとは思わなかった。

 もしかしたら、と思う。母がすべてを手配していったのは、俺への配慮だったのかもしれない。いきなり葬式代を払えと言われたら、実際困っただろう。

 俺は棺に入った母を見ても泣けなかった。安いプランだったせいか、棺に入れられる花はわずかだった。

 葬式はごく少人数で行われた。俺は慌てて買った安い喪服があまり体に合わず、もういい大人だというのに、急に連れてこられた子どもみたいな居心地の悪さを感じていた。

 小さい頃に、祖父の葬式に連れてこられたときみたいだ。火葬場で母の遺体が骨になるのを待つ間、俺は手持ち無沙汰だった。

「どこで何しててもいいが、お前、実家に戻る気はあるのか。固定資産税だってかかるんだぞ」

 久しぶりにあった叔父は、随分老けて見えた。俺はとっさに反応できなかった。

「残ったのはあの家と土地だけだ。住みもしない家の税金を払うくらいなら、両方くれてやってもいい」

 実家に戻ることに支障はない。とはいえ積極的に戻りたいわけではなかった。だが一方で家賃がかからないのはありがたい。

 母は俺に残そうという気持ちもなかっただけかもしれない。答えはないけれど別に構わなかった。

 叔父は俺が辻橋から告発された件について、何も言わなかった。

 一時期はそれなりに大きな話題になったのだから、知らないはずはないだろう。あるいは本当に関心がなかったのかもしれない。

 親が死んだらそれなりに感傷的な気分になるのかと思っていたけれど、「親」というものがいるはずだった俺の心の部分は空白のままだった。埋まることはないし、今となっては特に埋めたいとも思わない。ただ、そこには何もない。

 母の骨を拾ってもやっぱり泣けなかった。もうこれで俺に親はいない。気持ちの上では祖父の葬式に連れられてきたときからそう変わっていないのに、俺はもうとっくに大人になってしまった。

「じゃあ、住むよ。俺にくれ」

 自分の今の姿は立派な大人とはかけ離れているのに、年齢だけはすっかり積み上がっている。

 経験だけはした。仲良くしていたと思っていた相手から、思わぬ仕打ちを受けることもある。世間のすべてから、まるで世界中から敵扱いされるような目に遭うこともある。ただ生きているだけで。

 俺はもう、家族を作りたいとは思えなかった。

 もし仮に、今の俺を好きだと言ってくれる女性がいたとしても、付き合うことはないだろう。そういうものは、もうすべて遠い世界の話だった。

 勝手に荷物を背負わされた。捨てたくても、どれほど振るい捨てたくてもできない。頭の一部を常に、辻橋に占拠されている。

 辻橋の死は容易に想像できる気がした。

 あの男は何のためらいもなく、死のうと思ったときに死ぬだろう。残された人間がどんな気持ちになるかなんてまるで想像もせずに。骨はきっとすかすかだろう。今では報道で彼の名前を聞くこともほとんどないけれど、それでもきっと涙を流す女性はたくさんいるだろう。

 こんなところに来てまで、俺は辻橋のことを考えているのかと自嘲した。

 解けない呪いみたいだ。ずっと、どこまでも追ってくる。

 もし本当に辻橋の葬式に出る日が来たら、気持ちが休まるだろうか。想像してみたけれど、思ったほど気は晴れなかった。

 

 

 俺は葬式が終わったその足で実家に向かった。細々とした事務があったし、久しぶりの実家がどうなっているか自分の目で確認したかった。

 よく知っているはずの家だった。庭もない、小さな一軒家だ。それでも昔、一時期は母が植木鉢で植物を育てたりしていた気もする。今は何もなかった。

 見慣れた鍵を使ってドアを開けると、家の中がひどく散らかっていることが一目でわかった。

 饐えたような匂いがする。叔父が立ち入ったはずだが、片付けまではしてくれなかったらしく、キッチンにはスーパーで買った弁当が出しっぱなしだった。

 母は父が死んでから、パートで働きながら暮らしていた。父はほとんど貯金を残さず、年金はわずかなものだったらしい。

 ――何もしなかった。

 薄々母の状況には気付いていた。

 かつて母は俺を助けてくれなかった。普通に食事を作り、掃除をし、俺の怪我を見て見ないフリをした。たぶん逆らっても俺を助けるどころか、彼女自身も殴られるだけだった。無力だから、何もしなかった。

 母の遺体を見ても泣けなかったのに、キッチンのテーブルに残された半額のシールが貼られた弁当を見ていたら、何もかも投げ捨てて泣きわめきたい衝動にかられた。

 俺には何もない。誰もいない。

 泣きたいのに、涙も、独り言さえ出てこなかった。

 

 

 俺は辻橋に会いにいくつもりなんてなかった。

 単発的な肉体労働をしながら、実家の片付けを進めた。廃棄物収集業者に任せられたら楽なのだろうけれど、喪服など思わぬ出費が重なっていて、金銭的な余裕がなかった。

 俺はそうして単調な日々の中で毎日、辻橋のことを考えていた。

 でも、俺の覚えていることなんて間違いだらけなのかもしれない。魚見の言葉を何度も思い返した。

 俺には本当に心当たりがない。辻橋がボロボロになっていた時期などあったのか。もしそうだとしたら、そのとき俺は助けにはなってやれなかったのかもしれない。

 でも、わざとじゃない。

 そもそも辻橋は何かが起きたなら、そのとき俺に言えばよかったのだ。気づかなかった、と責めるならそのときにすればよかった。いや、積極的に俺に言う必要さえあっただろうか。隠そうとしなければ、さすがに俺だって気づいたのではないか。

 魚見が正しいと仮定するなら、辻橋はおかしくなっていく一方で、俺にはそれを隠していたということになる。

 だがなぜわざわざそんなことをしたのか。何か俺を責めたいならすぐにすればよかった。めちゃくちゃだ。

 一緒に暮らしていた頃、こんなことになるなんて思わなかった。もし、予め知っていたら俺は何かができただろうか。母がこんなに早く死ぬとわかっていたら、もう少しは連絡を取れただろうか。こんな未来を避けたかったならできただろうか。

 俺にも、何かが。

 

 

 風の強い日だった。そういえば髭は今朝剃ったが、髪はしばらく切っていない。風になぶられた俺の髪は乱れているだろう。

 病院という場所に来るのは久しぶりだった。幸い肉体的には健康だし、精神的に辛くて死のうと思っていた時期も、病院に行くことは考えなかった。

 午前中の病院は老人が多く、混んでいた。スタッフが忙しそうに行き来している。病院の雰囲気も、消毒薬の匂いも俺は苦手だ。

 俺は少し緊張しながら、受付に名前を記載した。教えられた部屋は最上階にあり、個室だった。

 仕事のドタキャンや保釈金の支払いもあったはずだが、辻橋の資産は残っているのだろうか。ホテルの支払いだって相当な額になっていたはずだ。

 一歩一歩、廊下を進みながら俺は思い出す。

 辻橋を探して、あのホテルの部屋に行ったときのことを。

 辻橋がぬいぐるみの中にあのカードを隠したのは、恐らく俺に渡す前だろう。だとしたらあのときには既に、辻橋は決めていたということだ。

 そこまでの長い時間をかけて、辻橋は何がしたかったのか。

 俺は十年以上をかけて、何かを考えたことなどない。

 そこまで誰かに執着したことも。

 その部屋のドアは閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。

 ベッドの周りにはカーテンが掛かっていた。だからベッドに横たわっている人物の姿は見えなかった。

「俺蕎麦食べたいんだけど」

 ドアが開いた音を聞いてか、カーテンの向こうから声が聞こえて、反射的に体がすくんだ。

「蕎麦湯飲みたい」

 帰りたい、と思った。このまま何もなかったことにして狭い部屋に帰りたい。そうして死ぬまで、退屈だけれど最悪でもない日々を過ごせばいい。もはや辻橋と向き合っても、俺に得られることなんてないはずだ。

「聞いてる? 魚見」

 それまではただ、問うていればいいだけだった。なぜ、と。

 俺は恐ろしかった。

「悪かったな、蕎麦はない」

 思い切りカーテンを引く。元気そうだな、と俺は言ってやるつもりでいた。だけどベッドに横たわる辻橋には、到底そんな言葉はかけられなかった。

 辻橋は顔色も悪く、何よりひどく痩せていた。

 ――これも全部、演技なんだろうか?

「あれ、来たんだ? 随分ちょろいね」

 辻橋は皮肉っぽく笑った。

 弱っているのも同情を引くためで、そうしてのこのこやってきた俺は、彼の脚本にまんまと載せられたアホなんじゃないだろうか。何しろこいつは俳優だ。それぐらいの事はやりそうな気がした。

 だがまだ帰れない。俺はベッドの側にある、背もたれのない椅子を引き寄せる。

「死にかけてるって聞いた」

「死ぬって言ったら来るみたいなの、やめた方がいいよ。メンヘラにつきまとわれる」

 言葉とは裏腹に、ベッドに投げ出された辻橋の腕は異様に細い。そこに点滴の管が繋がっている。

「お前みたいなか?」

 辻橋は俺の方をあまり見なかった。ベッドの周囲にはカーテンが引かれているので、外は見えない。薄布に囲まれて、俺たちは二人きりだった。

「お前が本当に嘘だって言うとは思わなかった」

「だから最初っから言ってるじゃん。俺は信用できるでしょ?」

 俺には結局、最初から徹頭徹尾、辻橋のことはわからない。

「じゃあ言え。なんでお前は、こんなことをした」

 俺はもう何度も繰り返した問いを口にする。くり返しすぎて呪文のようだ。

「それ、俺が教えて何か得がある?」

 辻橋は俺の真面目な表情を見て、口の端だけで笑った。

「俺にはこれ以上、東本に答えを教える理由がないよね。だってそうしても何の得もないから」

 真正面からぶつかっても、ホテルの時と同じようにきっとのらりくらりと躱されるだろうとは思っていた。

「じゃあ得があるなら、言うのか」

 俺はじっと辻橋を見る。

「お前がもし本当のことを言うなら、俺は一生お前のそばにいてやる」

 辻橋が初めて怪訝そうな表情を見せる。

 いざとなったら辻橋と差し違える覚悟で、用意してきた餌だった。

「結婚もしない、誰かと同居もしない、お前とずっといる」

 これは、俺にあまりにも不利な条件だ。

 俺は辻橋が「本当のこと」を言ったかどうかなど、確かめようがない。辻橋は嘘でもいいから、俺を納得させればいいだけだ。どんな適当な理由だってでっちあげられる。

 病室の中は静かだった。通り過ぎてきた他の部屋にもきっと入院患者がいるだろうに、しんと静まりかえっている。

「なんで?」

 俺がずっと繰り返した言葉を、怪訝そうに辻橋が口にする。少しだけ愉快に感じた。

「知りたいから」

 一番に口をついた答えはそれだった。

「……そこまでして?」

 辻橋は告発を嘘だと発言した。だから、俺の要求はもう達成されている。

 理由を知っても、俺の人生が何か変わるわけではない。誰かが同情してくれるわけでも、俺の評価が元に戻るわけでもない。

 それでも俺は、知りたかった。

 呪いのように俺に取り憑いた問いを、振り払いたかった。そのためなら、辻橋一人の人生を背負うくらい、何てことはないと思った。

「理由なんてないって言ったら?」

 辻橋は真顔でゆっくりと言った。彼だって、この条件が俺に不利なことはわかっているだろう。

「世界中が東本の敵になって、俺しかそばにいられないようになればいいって思ったからやったことで、理由なんてないって言ったら?」

「……それだけか?」

 そんな可能性はもう何度も考えた。俺は冷静だった。俺はじっと辻橋の目を見る。

「それで、全部か? 俺に言いたいことは、本当に」

 辻橋の瞳はわずかに茶色がかっている。そんなことを、俺は初めて知る。

 息が詰まるような数秒が続いた。数分にも、数十分にも感じられた。

 俺たちを囲むカーテンがわずかに揺れている。

 棚の上には着替えが用意されていた。魚見が用意したのだろうか。窓が開いているようで、外からかすかに子供の笑い声が聞こえる。

「東本は、何もしなかった」

 以前にも、それと似た言葉を彼の口から聞いたことがあった。

「それだけだよ」

 俺は何も言わずに、ただ辻橋を見て、彼の言葉を待っていた。

「あの日、部屋に帰ったら男がいていきなり殴られた。猿ぐつわされて爪剥がされて暴行された。助けてって言っても、東本は来なかった。家にいたってあとで知ったけど。それだけ」

 途中で言葉を挟まないようにしようと思っていた。だけど、辻橋の言葉はそれですべてのようだった。

 窓の外でまた子供が笑う。

 戸惑いつつも俺の頭に思い浮かんだのは、かつていた辻橋のストーカーのことだった。家の周囲でうろうろしていたから、俺は撃退する手伝いをしたことがある。

「犯人は? 警察はどうしたんだよ」

「自殺した」

 辻橋はつまらなそうな口調で言った。

「勝手に飛び降りて、死んだ。取り調べなんて受けても誰も罰せないし、嫌な思いするだけだってわかってたから警察には行ってない」

 俺は辻橋の言葉を否定したくなる自分を、必死に押さえつける。

 これは、嘘ではないだろうか? 事件化していないなら証拠がない。辻橋の言葉だけだ。

「……俺は、なんで気づかなかった?」

 自分で言いながら、随分間抜けな問いだと思った。

 あのストーカーの男がどうなったか俺は知らない。辻橋にも聞かなかった。当時、辻橋に恋人がいたのかさえ覚えていない。たぶんいなかっただろうけれど、確証はない。

「知らないよ、俺が教えてほしい」

 辻橋のバイト先も、どの時期に舞台に立っていたかも、俺は何も知らなかった。

 確かに俺たちはそれぞれの部屋で過ごすことが多かったし、丸一日顔を合わせないことだってあった。

 俺は音楽を聞いていたのかもしれないし、彼女と電話をしていたのかもしれない。酒を飲んでいたのかもしれないし、熟睡していたのかもしれない。

 だがそうではないかもしれない。どちらでもありうる。

「今更言われてもわかるわけない、そのとき言えばよかっただろ」

 辻橋がそんな風に傷を負ったなら、俺だってさすがに気づいたはずだ。

 もし彼の言うことが本当なら、辻橋はそれを俺から隠したのだ。わざわざ演技をして。

「今言った」

「は?」

「今言うために、言わなかったんだよ」

 辻橋は笑った。カーテンがひときわ大きくふわりと揺れた。

「最悪で全部クソだったけど、でもいつか東本に言おうって思ってた。いつか、そのときがきたら」

 辻橋はこんな人間だっただろうか。結局俺は、彼のことを何も知らない。

「……十年以上、そんなこと考えてたのか? そんなんで人生楽しいのかよ」

 目の前に、大きな穴が開いていて俺を見返しているように感じる。ぐらりとバランスを崩し、飲み込まれてしまいそうな気がする。

 これが俺が求めていた答えのすべてなんだろうか。

 確かに辻橋の言うことが事実なら、俺にだって責められるべき点はあるだろう。辻橋はかわいそうなのかもしれない。

 だが、俺は何かしたわけじゃない。俺が悪いわけじゃない。そもそも、辻橋の言葉が真実と証明できるわけでもない。

 急に動悸が激しくなってくる。俺は答えが欲しいあまりに、早まったんじゃないだろうか? これもまだ彼の演技の続きでないなんて誰に言えるだろう。

 どうせ俺の人生なんてもう、何の意味もない。だから別に辻橋のそばにいるくらい構わないと思った。だけどこの答えのために、あるかもしれない可能性まで棒に振っていいのだろうか。

「でも現にさっき東本は自分から、俺のことを選ぶって言った」

 このまま辻橋を放って逃げて、名前も全部捨てて新しい土地でやり直すのはどうだろうか。すべてを過去にできたら、少しはマシな人生の残り時間を過ごせるんじゃないのか。

「当時の俺があんたを好きだったとして、嫌な目にあってそれを話して、そんな言葉を引き出せたと思う?」

 辻橋はきれいな顔で、声を上げて笑った。ぞっとするような、整った顔だった。痩せたせいか、前よりも迫力が感じられる。

 俺は辻橋ほどきれいな男を他に知らない。

 どうして俺は、そもそも彼との同居など始めてしまったのだろう。仮に今ここで俺が辻橋を殺しても、彼のやったことは俺にまとわりつき続ける。亡霊のように、呪いのように。辻橋は笑い続ける。

 俺は発作的に、無防備にベッド横たわる辻橋の首を掴んだ。あの日、ホテルでもそうしたように。

「死ね」

 辻橋は抵抗しなかった。ただ笑っていた。

 手のひらに力を込める。俺が何もできないと思っているなら間違いだ。思い知らせてやりたかった。ここで今終わらせてやる。どうせ、差し違えてもいいと思って来たのだ。辻橋を殺して、俺も病院の屋上から飛び降りればいい。

「……だったんだよ」

 辻橋がかすれた声で言う。もう辻橋の声など聞くかと思うのに、俺はつい耳を澄ませてしまう。

「……好きだった」

 首を絞められながら、かすれた声で辻橋は言う。

 いつしか俺もまた笑っていた。バカげている。そんな言葉で、同情を引けるとでも思っているのだろうか。大根役者もいいところだ。演技を仕事にしていたはずなのに、全然なっちゃいない。

 俺にはいまだに、辻橋のことは全然わからない。頭のてっぺんから足の先まで、何ひとつわからない。わかりたくもない。何が真実なのかも。

 時間は戻せない。

 何かが起きる前には戻せない。二人で暮らしていたあの部屋にはもう戻れない。

「ふざけんな。演技すんなら、ちゃんと舞台の上でしろ」

 俺は辻橋の首から手を離す。勝手に辻橋の舞台に巻き込まれて、幕まで引かされるのなんてごめんだ。

「まだ立ってないだろ、お前。何だったか、あのでかい舞台」

 俺は想像する。満員の観客を前に、辻橋は軽やかに現れる。そして誰もの目が彼に惹きつけられる。

「そしたら見に来る?」

 辻橋は苦しげに、吐息のような声で言った。

 辻橋を許すかといったら許せない。だけど恨み続けるのは、苦しい片思いを続けるのと同じだ。もはや俺の人生は返ってこない。だけどそれは辻橋も同じなのだろう。

 俺は想像する。辻橋を見て輝く観客達の目を。俺の謎、俺の不幸、俺に取り憑いた悪夢のようなこの美しい男に、日常のあらゆる苦しみを忘れてのめり込み、見つめ続ける人々の目を。

「……行くよ」

 そんな光景を見られたら、俺の気も少しだけは済むのかもしれなかった。