“Celestial大好きです。気軽にメッセージください” 

 

「ゴミが息してんじゃねぇよ」

 放課後の男子トイレは寒い。水をかけられていれば尚更だ。身体が勝手にぶるぶる震えだすのを、止めることができない。

 すえた匂いが鼻をつく。誰かが偶然通りかかって助けてくれるかもしれないなんて希望はとっくに捨てていた。どうせ誰も来ない。来たとしたって、助けたりしない。

「ほら、立てよ」

 言われたとおりに哲司が立ち上がろうとすると、中村がホースで水をかけてくる。先を潰したホースから放出される水は、水圧があって痛い。思わず哲司がバランスを崩すと、笑い声が響く。

「……っ」

 制服は全身、ぐっしょりと濡れていた。またジャージで帰らないといけない。どうせ親は気にもしないだろうけれど。

「休んでんなよ」

「立てって」

 顔を狙って中村がホースの水を飛ばしてくる。直撃を受けて視界が歪んだ。

 哲司を囲むクラスメイトは三人だ。背の高くてひょろひょろした中村、元野球部だという澤、それから小柄で顔立ちの整った西戸。

「そこの便器、舐めたら許してやるよ」

 西戸が腕を組んで、つまらなそうに言う。

「だってさ」

 モップに寄りかかりながら、澤が追従するように言う。西戸はモップもホースも持っていない。いつも彼はそうだった。中村や澤に命じるだけで、自分は手を汚さない。

 もとはと言えば、哲司に目をつけ、腹が立つといい出したのも彼だった。学内では有名人だから顔は知っていたが、中学二年で同じクラスになるまでこんなやつだとは知らなかった。

 何もかもうんざりだった。クラスメイトはみんな、哲司がどういう目に合っているのかはわかっている。わかっていて、誰も何もしない。担任だって。親は最初からあてにならない。

「ほら、舐めろよ」

 死のうと何度も思った。

 “群れるのは弱いからですよ。そいつらには何もない。君と違って、何も”

 灯火のように大切な言葉を思い出す。哲司ひとりだけのためにつづられた、丁寧な言葉。

「今日はそれで許してやるって言ってんだろ」

 “いつかそいつらも飽きますよ。単なる暇人なんだから”

「それとももっと遊びたいのかなー?」

「えー、俺たちだって忙しいんだけど」

 こんな、ままごとみたいないじめなんて、何ということはない。

 “あなたが強いことは、俺が知ってます”

 便器なんて……たかが陶器だ。ぺろりと舐めてやれば彼らは満足する。それだけのことだ。だけど、哲司は動けなかった。

「……うっ」

 また水に襲われ、今度は澤がモップでつついてくる。全身が重くて寒い。頭がぼうっとしてきて、哲司は思わず目を閉じた。早く家に帰りたい。暖かい布団にくるまって、ヘッドホンをして、彼にメッセージを送りたい。 

「おら、寝てんじゃねぇよ」

 中村が至近距離から顔に水を放射する。口を無理やり開かされて、そこにホースの水を突っ込まれた。

「……ぐっ」

 そのあまりの勢いに、哲司は声にならない声を上げて咳き込んだ。澤が大げさに笑う。その笑い声が、がんがん響く。

 何をしたって無駄だ。助けは来ない。哲司にできるのは、ただ西戸たちが飽きるのを待つことだけだった。

 誰も助けてはくれない。味方なんていない。

 インターネットの向こうの、たったひとりを除いては。

「ほら、早くきれいにしろよ」

 モップに突かれるようにして便器に顔を近づけながら、哲司は“彼”に早くメッセージを送ることだけを考えていた。

 

 

              

 

 

「何だまた母ちゃんか?」

 届いたばかりのメッセージを見ていた西戸は、とっさにホームボタンを押し、画面を覗きこむ澤をはたいた。

「ちげぇよ」

 野球部員が熱心に球を追うグラウンドのそばを、三人はのんびり歩いている。西日がまぶしい。また今日も、つまらない一日があっという間に終わる。

 六時からは塾だ。今日はちんたらしすぎたなと西戸は思う。それもこれも、あいつが素直に、モップを絞った水を飲まなかったのが悪い。

「コレか?」

 澤がオカマっぽい仕草で小指を立てて見せる。

「ちげぇっつの」

「怪しいな、見せろよー」

「やめろ」

 しなだれかかってくる澤に対し、西戸は軽く、けれど有無を言わせない口調で言う。澤はしぶしぶ身を引いた。

 澤からは腐った水みたいな匂いがした。さっきまでモップをいじっていたのに、手も洗っていないのだろう。うんざりする。

 中村や澤は、いじれる相手がいればそれで楽しいのだろう。だが、西戸はもう田中をいじめることにも飽きていた。屈辱を与えて楽しいのは一瞬で、またすぐに虚しくなる。

「でもほんと、多くね? 最近お前、ケータイいじってること」

 中村の言葉に、西戸はさぁな、と言って笑った。

 早く家に帰ってDVDを見たい。彼女たちの歌を聞きたい。

 アイドルが好きだなんて、学校でも家でも絶対に言えなかった。勉強でも運動でも、何でも平然とできるフリをした。実際、別にそれらは大した苦でもなかった。

 だけど、物足りなかった。

 世界が変わったのは、彼女たちのことを偶然知ってからだ。その輝きに、自分にない「夢」の魅力に、西戸は取りつかれた。

 身近な誰にも言えない思いを吐き出す先は、インターネットだった。ブログを書き、twitterのアカウントを作った。西戸は思いの丈を、言葉にして世界に撒き散らし続けた。

 “つらい、疲れました。すみません、また愚痴で”

 今日はまた一段とネガティブなメッセージだった。いじめのような扱いを受けているらしい。いじめなんて暇なこと、よくやるなと思う。

 “おつかれ。俺もしんどい。疲れたわ”

 “彼”と親しくなったのも、twitterがきっかけだった。彼の言葉は素朴だったけれど、誠実で優しかった。大っぴらにはしにくい、日々感じる痛みや苦しみについても、打てば響くように言葉が返ってきた。好きなものを好きと、辛いときには辛いと言い合えるのは初めてだった。

 学校でも家でも、誰にも本音なんて言えなかった。

 中村や澤には絶対に見せられない。

 西戸は続けてメッセージを打つ。

 

  “何か嫌なことでもあったんですか?”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋のはけ口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1.たそかれ

 

“一番好きなのは、一番目のアルバムの「最後のヒーロー」ですね。かっこ良くなくても君を救う、っていう歌詞のところでいつも泣きそうになります”

“いいですよね!! 俺も大好きです!! ほんと聞くたび涙腺やばいです”

 

「田中、お前こん中だったらどの子が好み?」

 短い授業の休み時間、哲司の目の前に置かれたのは、グラビアの見開きページだった。数人の女性が水着姿で、セクシーなポーズを取っている。答えないでいると、早く言えよと脇腹を強く突かれる。

「おい言えよ、お前、ホモなんじゃねぇの?」

 答えても答えなくても、されることは同じだ。哲司は黙っていた。中村が、脇腹の肉をつまみ上げてくる。

「……いっ」

 思わず声が出てしまうほど、容赦無い力で摘まれる。

「ほら」

 目の前には西戸がいて、つまらなそうに漫画雑誌を読んでいた。澤が強く足を踏みつけてくる。クラスメイトは何も言わない。もし仮に哲司が殺されても、「仲良く遊んでいると思っていた」と平然と言うのだろう。全員殺してやりたい。

「言えって」

 哲司は痛みに耐えかねて、恐る恐る女の子の一人を指差す。別に誰だっていい。強いて言えば、その子はCelestialのノリカに似ていた。だが、そんなことは口に出したりしない。

 好きなアイドルグループがいるなんてバレたら、どんな目に合わされるかわからない。自分のことはいい。でも、彼女たちまで汚されるのは絶対に許せなかった。

「へぇ、お嬢系が好きなの?」

 答えたのに澤は足をどけない。かえって踏み潰すように、何度もぐりぐりと体重をかけてくる。

「……っ痛」

「クラスで言うと誰だろうな」

「木崎じゃないか?」

 哲司の方を見もせずに、言ったのは西戸だった。

「あーそうだな、ぽい」

「ぽいぽい、あー、お前木崎が好きなんかぁ」

 案の定、西戸の言葉で、哲司が好きな相手は木崎似ということになる。二人は西戸には逆らわない。哲司はせめてもの抵抗の気持ちで、強く西戸を睨みつけた。だが、西戸はこちらを見もしない。

 西戸の母親は音楽家で、父親は弁護士だという。有名な話だ。西戸本人も整った顔立ちをしていて、成績は抜群だし、スポーツだってできる。ふざけたくらい、恵まれた男だった。

 中村や澤は結局、西戸に従っているだけだ。彼らは幼稚だ。哲司が嫌そうな顔をすれば、楽しそうに笑う。

 だが西戸だけは違った。西戸は哲司をいじめるとき、床を舐めさせたり虫を食べさせたりさせながら、本当につまらなそうな顔をする。命令しているのは西戸なのに、心の底から軽蔑しているような目で哲司を見る。それが許せなかった。

「……好きじゃない」

「まぁまぁ、そうなんだろ?」

「そりゃあ、友達の俺達がなんとかしてやんないとなぁ」

 はしゃぐ中村や澤を前に、西戸は淡々と漫画のページをめくり続けていた。

 

 

 “夢は叶わないかもしれないの。でもそれでいい。前を向いて歩けるって知ったから”

 暗闇に音が響く。哲司はヘッドホンで音量を最大にし、目をつぶって音楽を聞き続けていた。彼女たちの声を聞くだけで、体がすうっと軽くなるみたいだった。

 学校は地獄でしかなかった。両親には一言もいじめのことは言っていない。哲司のことには無関心な親だから、言っても無駄だろう。中学一年生の頃、少しはいたはずの友人は、今ではみな目をそらす。

 でも別に構わない。味方はいるのだから。

 哲司はスマートフォンを取り出し、SNSを開く。本名から一字取って、ツカサという名前で登録している。知り合いには誰も教えていないので、つながっているのもみんな会ったことのない人たちだ。

 タイムラインをざっと読んだあと、メッセージアプリを開いた。

 “学校、ほんとに最悪です。でも1stアルバム聞いて、ちょっと浮上。sorさんはどうですか?”

 西戸たちは放課後、哲司に木崎のリコーダーを盗ませた。証拠写真を撮っていたから、回し見したりするのかもしれない。便器を舐めるのに比べたらマシだ。抵抗する気も起こらなかった。

 何度も画面を覗き込みながら、そわそわして返信を待った。不特定多数に向けたツイートとは違う、個人へのメッセージは、いつも少し緊張する。

 返事はすぐに返ってきた。彼もツイートをしていたから、オンラインなのは実はわかっていた。

 “俺も毎日死にたいと思ってる。でも、いいよね、あのアルバム”

 メッセージを見ていると、涙が滲んできた。自分以外にも苦しんで、でも何とか日々を過ごしている人がいる。それだけのことが、こんなにも嬉しい。

 お互いの素性は知らなかった。sorは関東に住んでいる高校生だという。本当かどうかは知らない。哲司自身、年齢は教えていない。

 彼とのやり取りと、Celestialの音楽を聞くことだけが、哲司をかろうじて支えていた。

 

             ・

 

“最初のアルバムが一番好きなんです。まだ音楽性が固まりきってなかったり、荒削りだって言われがちなこともわかってるんですけど”

“俺も!確かにまだ歌もちょっと下手だけど、ビジョンはもう完成してると思います。技術とビジョンのちぐはぐさがかえっていいんですよね”

  

 “旅行に行くので、数日メッセージが返せないかもしれません”

 sorからのメッセージを見て、哲司は自分の旅行のことを思い出した。気分が沈む。

 修学旅行だった。哲司たちの学校では、二年生で京都に行く。団体行動にはうんざりだったけれど、欠席もできなかった。両親に言えば叱られるだけだ。結局、無理やり班組みさせられたクラスメイトと、一緒に京都を観光しなければならない。

 “全然大丈夫ですよ”

 哲司はすぐにメッセージを返した。sorとはほぼ毎日頻繁にやり取りをしている。土日には何時間もやり取りし続けることもある。

 最初の頃、哲司は細々とCelestialに関するツイートをしていた。次第に同じ趣味の人たちがいるとわかってきて、片端からフォローした。その中に、sorもいた。

 彼は頭が良さそうで、難しげな言葉を綴る人だった。厭世的で繊細な印象だったけれど、意外とやり取りをすると気さくだった。

 やがて向こうから言われてメッセージアプリのアカウントを交換した。少しずつ、話はCelestialのことから個人的なことにも広がっていった。

 彼と話していると、他の誰にも感じない安らぎを覚えた。今の哲司には友人もいない。初めて自分が自分として、認められたような気がした。

 sorは賢くて、投げやりで寂しそうで、でも抜けたところもあった。哲学者の言葉を引用してみせるくせに、岐阜がどこにあるのかも知らなかった。哲司がそれをからかうと、ムキになって怒った。哲司が相談をすると、いつでも丁寧に答えてくれた。

 学校でのことに疲れている哲司には、その優しさが染み入るようだった。

 ネットをやっていなかったら、一生知り合うこともない人だっただろう。

 たぶんこの先も、直接会うことはないだろうと思っていた。

 

 

 哲司はクラス委員や地味目の女子が作る、これといって特徴のない班に組み込まれた。彼らは最低限しか哲司に話しかけてこなかった。自由時間の計画を練る時も、哲司のことを存在しないかのように扱った。

 あっという間にやって来た旅行の日も同じだった。移動中、彼らは哲司とはひとつ離れて座り、一言も話しかけてこなかった。

 だが、哲司はそれでもほっとしていた。sorやCelestialのことでも考えていればいいのだから、誰とも話さないことは苦にならない。ヘッドホンを耳に入れて、ずっと窓の外を眺めていた。

 宿に着いて食事を終えた後、哲司はそっと部屋に戻る列から抜けだした。

 西戸たちに会ったら何をされるかわからない。消灯の時間ぎりぎりに戻って、すぐに寝てしまおうと思った。だが、宿はどこに行っても人がいた。一人でうろうろしていると、明らかに不審だ。哲司はどっと疲れを感じた。

 それでなくても、慣れない旅行だ。哲司は携帯電話の時計を見る。宣言通り、sorからのメッセージはなかった。彼は今どこを旅行しているのだろう。そのくらい、聞けばよかった。

 風呂に入るのは九時までの間に、と教師からきつく言われていた。もう八時四十分だ。哲司はのろのろと身体を動かす。部屋に一度着替えを取りに戻らないといけない。西戸たちと鉢会わないことだけを祈っていた。

 

 

 風呂から上がって着替えようとしたとき、かごの中に下着が見当たらなかった。最初、うっかり自分が部屋に忘れてきたのかと思った。

  だが、ここまで履いてきたはずのズボンもない。着替え用のジャージもない。さっきまで履いていた下着もなかった。

「……嘘」

 部屋に着替えを取りに行った時、西戸たちの姿はなかった。だが、クラスメイトは何人もいた。

 哲司はとっさに、携帯電話を探した。脱いだTシャツにくるんで入れておいたそれは、奇跡的に無事だった。ほっと胸をなでおろす。

 哲司は脱衣場を歩きまわり、棚やゴミ箱の中を探した。だが、どこにも下着もズボンもない。急に動悸がしてきた。

 このまま見つからなかったら?

 教師に言うにも、どうやって言いにいくのか。言ったとして、さすがに替えの服まで持っているとは思えない。

 誰かが隠したのだ。タオルを巻いたまま部屋に戻ることはできる。だが、待っているのは、西戸や澤や、味方にはなってくれないクラスメイトだけだ。

 話し声がして、誰が脱衣場に入ってくるのがわかった。哲司はとっさに、荷物を持ってトイレに駆け込んだ。

「……あれ? いねぇぞ」

 澤の声だった。びくりと身がすくむ。

「まだ入ってんじゃねぇの?」

「いや、シャツもねぇし」

 西戸と、もう一人今日は中村ではなく、同じクラスの生徒の声だった。哲司が慌てている様子を、からかいにきたに違いなかった。

「入れ違いになったんじゃねぇの?」

「フルチンで外出たのかよ」

 トイレなんてすぐに見つかる。どうすればいいか必死に考えた。だが、何も浮かばない。

 焦りと悔しさで涙がにじんでくる。みじめだった。下半身をタオルで覆いながら、トイレに隠れている。何もかも嫌だ。いっそ、このままここで消えてなくなってしまいたい。

 とっさに携帯電話を握りしめた。

 わざわざ旅行中だと言ったということは、海外かもしれない。迷惑になってしまうかもしれないし、返信はないかもしれない。それでも彼と話したかった。

 “死にたい。辛いです。いますぐCelestialの音楽が聞きたい”

「おーい、西戸、何してんだよ、来いよ」

「だってなんか床濡れてんじゃん」

「あーやだやだ、お坊ちゃんは」

 西戸の声は少し遠く、澤たちが脱衣所を歩きまわっているようだった。

 どうして自分が西戸のいじめのターゲットになったのか、哲司にはわからない。一年のときは何もなかった。有名だから西戸の存在だけは知っていた。だけど、向こうは哲司のことを知らなかっただろう。

 ただ、自分とは違う世界の住人だと思っていた。

「トイレじゃね?」

「あれ? 入ってる?」

 がちゃがちゃと音がして、ドアノブが震えた。

「もしもーし」

 中村がドアを叩いている。心臓がどくどくいっていた。逃げ場はない。でも、自分から外に出るなんてできない。

 どうすれはいいのか哲司にはまったくわからず、トイレの中でしゃがみこんでいた。

 そのとき、携帯電話が小さく震え、哲司はとっさに画面に目をやった。

 “僕はきっとまだ未来を見ることができる。その先に広がる新しい景色を。足が震える。だけど未来を”

 Celestialの2番目のアルバムの、最後の曲の歌詞だった。

 頭のなかに、大好きな曲が広がる。ただの文字だ。音楽が流れてきたわけじゃない。でも、不安で縮こまっていた心に、きらきらとした曲が染み渡る。

 メッセージの最後に、sor自身の言葉があった。

 “曲自体を送ってあげられなくてごめんなさい。でも、大丈夫、頑張って”

 自分がトイレにいることも、外に西戸たちがいることも忘れた。

 味方なんて誰もいないと思っていた。

 でも違う。話を聞いてもらえるだけで、悪くないと言ってもらえるだけで、こんなにも見える世界が変わる。

 見回りに来たらしい教師の声を聞きながら、涙で目が熱くなってくるのを、哲司はトイレットペーパーで拭った。

  

 

 

               ・

 

 旅行後も、sorとのやり取りはますます親密になり、頻度を増した。一度優しさに触れてしまうと、それがなくてはいられなかった。

 哲司はsorの色々な事情を知った。親は社会的地位の高い人間で、兄はとても優秀なこと。彼が自分には才能がないと思って苦しんでいること。

 学校で話をする友人はたくさんいる。でも、寂しい。君に会いたい”

 俺もです、とすぐに送りたくなった。だが、会おうと思えば会えてしまうのと気づいて、手が止まった。

 これまでだって、声が聞きたいという彼からの要望を、哲司はあれこれ理由をつけて断っていた。直接話したら、嫌われるかもしれない。顔も見たことのない相手といきなり話すのは怖い。

 君に会いたい――

 その日のsorのメッセージは妙に熱を帯びていた。恋の告白みたいだ、と思って、哲司はひとりで赤面した。

 哲司が返信を送る前に、sorは続くメッセージを送ってきた。珍しいことだった。

 “急にすみません。会ってもいないのに、変なことを言う奴だと思うと思います。でも、俺は君を好きになってしまった”

 刺激的な文面にどきりとする。最初、哲司は彼が何か勘違いをしているのだろうと思った。哲司のHNはツカサで、一人称は俺だ。だが、ツカサという名前は女の子でもいるし、どこかで誤解があったのだろう。

 だから、哲司はこう返信した。

 “すみません、俺、男ですけど……”

 返信はすぐに来た。

 “ツカサさんが謝る必要はないです。ごめんなさい。俺も男です。俺はゲイです”

 

 

 正直に言えば、哲司はsorの告白に、少し引いた。sorのことは好きだ。だけど急にゲイなんて言われても困る。男が好きな男だということはわかるが、そんな人は身近にいない。哲司の中のゲイのイメージは、テレビのオカマタレントくらいのものだ。

 これまでの彼とのやりとりが、全部汚されたような気がした。彼は優しかった。だけど、下心あってのことだと思うと気持ちが悪かった。

 哲司は、なかなかメッセージを返さなかった。

 sorからは、連絡を絶ってくれても構わないこと、twitterでこのことは書かないでほしいこと、そして不快にさせたなら本当にごめんという、謝罪の言葉が送られてきた。ゲイであることを告白したのは初めてだという。

 彼らしい、丁寧な言葉だった。

 彼が日頃疎外感を覚えている様子なのは、ゲイであることが一因なのかもしれない。わからなくはなかったが、やはり何と返信していいかわからなかった。

 彼とのやり取りのない日常は淡白だった。

 学校に行っても、誰とも会話しない。親との会話もほぼない。誰とも言葉を交わさないと、まるで自分が透明人間みたいな気がしてくる。twitterで適当なことを呟いてみても、気分はまったく晴れなかった。他に親しくやり取りをしている相手もいない。

 sorのことが懐かしかった。

 “俺はゲイじゃないですけど、気持ち悪くはないです”

 数日も経つ間にはすっかり気持ちが変わり、哲司はメッセージを送った。

 彼がゲイだから何だというのだろう。彼とのやり取りに救われたことは事実だ。彼と話すのは好きだし、やめたくない。

 もし彼が自分のことを好きでも、会わなければいいのだという打算もあった。

 “俺は君を好きになってしまった”

 最初の衝撃が薄れると、好きだと言われた嬉しさがじわじわ湧いてきた。学校ではゴミのような扱いでも、好きだと言ってくれる人もいるのだ。

 sorからは喜びの返信がすぐに来た。

 彼からの返信は更に早くなり、彼の言葉はより優しくなった。優しさに飢えた身には甘い毒のようだった。毎晩言葉を交わしあった。それはもうほとんど蜜月と言ってよかった。

 哲司はますます彼とのやりとりに溺れていった。

 

                ・

 

 中学三年になった哲司は、西戸や澤、中村のいずれともクラスが別れた。教師が手を回してくれたのかもしれない。偶然かもしれなかった。

 それでなくても受験の時期だ。みんな自分のことで精一杯になる。西戸と澤は成績がとてもいい。どこかいいところを受験するだろう。哲司もできるだけ知り合いのいない高校に進みたかったから、これまでになく勉強をしていた。

 西戸は三年生になって、生徒会長に就任した。

 何を見てもつまらなそうな顔をしていた彼がどうして、そんな活動に手を上げたのかよくわからなかった。だが、クラスメイトの噂話の中で、彼の兄も生徒会長だったのだと聞いた。

 西戸は外面がいい。整った顔立ちはそこらのアイドルと遜色ないくらいだし、テストはいつも学年で一桁台だ。先生受けも抜群の優等生だった。

 誰もあいつの本性をわかっていない。

 西戸だけは本当に、心の底から許せなかった。西戸だけが、本当にゴミを見るような目で哲司を見た。西戸に比べれは他の二人はかわいいものだ。

 西戸たちと話す機会も、いじめられる回数も格段に減った。だが、たわむれに放課後、中村が哲司を呼びに来るときがあった。そういうとき、呼び出された先はやはりトイレであったり、体育倉庫であったりした。

 西戸たちのいじめは稀にはなったが、より暴力性を増した。それまで自分で手を出さなかった西戸が、直接哲司の身体を殴ったり蹴ったりしてくるようになった。

「そんなに嫌なら、生徒会長なんてやんなきゃいいのに」

 哲司が思わずぽつりとつぶやくと、西戸は哲司の前で初めて表情を変えた。

「お前ごときに何がわかるんだよ!!」

 腹に強烈な一発を見舞われる。内蔵を吐き戻してしまいそうだった。痛い。身体を縮めてその痛みを哲司はなんとかやり過ごす。

 細い西戸の身体のどこに、こんなに強い力があるのだろうか。

 彼に投票した生徒全員に、本当の顔を教えてやりたい。きれいな顔を歪めて、西戸は哲司を殴る。こいつは悪魔だ。

 でもとにかくもう、卒業までの辛抱だ。埃っぽいマットの上で身を屈めながら、哲司はじっと時間が過ぎるのを待っていた。

 

 

 sorとのやり取りは続いていた。

 哲司はいまだに、自分が彼のことをどう思っているのかよくわからなかった。skypeをしようとか、写真を送ってほしいとか言われたが、すべて断った。それでもsorは嫌な反応はしなかった。

 同性を相手に付き合ったりするなんて、やっぱり考えられない。だけど、日々浴びせられる好意のシャワーは、心地よかった。それは哲司の自信になった。日常生活で何があっても、彼がいるのだと思えば心強かった。哲司は中毒者のようにsorとのやり取りを求めた。

 sorの文量につられて、哲司の返信も長くなった。sorはいつも短時間で、丁寧なメッセージを返してくれた。

 彼からのメッセージが来ると、その一言一言が嬉しかった。返信が遅いと、不安でたまらなくなる。もし彼とやり取りができなかったらと思うと、気が狂いそうになる。気が付くと、ほとんど常に彼のことを考えていた。

 自分も彼のことが好きなのかもしれない。

 sorの熱っぽいメッセージに引きずられるように、哲司は「俺もあなたが好きかもしれない」と書いた。

 sorからの返信は、意外とそっけなかった。

 “ありがとう、嘘だったとしても嬉しい” 

 どうして嘘だと決めつけるのか。自分の中の逡巡まで否定されたようで、哲司はむきになった。

  “嘘とか言うの、やめてください。sorさんとは少し違うかもしれないですけど、俺はちゃんとあなたのことが好きです”

 送信してから、何を自分は書いたのだと思って、哲司はひとり赤面した。

 哲司はこれまで、誰かに告白されたことも、告白したこともなかった。かわいい子がいればいいなとは思ったが、それ以上でもない。

 なのに、見ず知らずの男に、本気で好きだと送っている。

 どうかしている。

 返事はすぐに返ってきた。

  “ごめん。本当だといいと思ったんだけけど、信じられなくて。いますぐにでも君に会いたい”

 そうだ、会いたいという話になることは想定できたことだった。だが、さすがに哲司は彼と会うつもりはなかった。がっかりされるのが関の山だ。

 だが、その決意もすぐに揺らいだ。

 “PV撮影のためのシークレットライブの入場券が二枚あるんだけど、一緒に行きませんか”

 

                 ・

  

 そのシークレットライブのことは知っていた。ファンクラブ会員に対してごくわずかな人数だけ募集されたもので、とんでもないプラチナチケットのはずだった。

 PVに使用するため、客として入ってもらい、実際に数曲のライブをするのだという。倍率は非常に低く、当たった人はほとんど見かけなかった。哲司も当然のように外れていた。

 “当たったんですか!? すごいですね”

 “たまたまですよ”

 場所は、哲司の住んでいる沿線から四十五分程の東京のライブハウスだった。そこまでの交通費くらいならなんとかなる。

 もし彼が言い寄ってきてもライブ後にすぐ逃げてしまえばいい。待ち合わせを、ライブ直前にすればいいのだ。

 哲司はあれこれ計算をした。sorに会って面倒なことになるのは嫌だ。だが、こんなチャンスは二度とないかもしれない。自分の姿が、彼女たちの作品の一部としてずっと残るなんて。

 あれほど憧れた彼女たちの作品の、自分がそのパーツのひとつになる。PVはきっとyoutubeにも載るだろうし、DVDにもなる。

 どくどく心臓が早鐘を打っている。

 行きたい。

 sorがどんな男だとしたって、一緒にライブを見るくらいいいだろう。どうしても行きたい。そう思うと、もういてもたってもいられなくなった。

 “用事があって、ぎりぎりになるかもしれないんですけど……”

 哲司は慎重に、行きたい旨を返信した。sorからは、ならその時間に最寄り駅でと返信がきた。

 

 勉強もなかなか手につかなかった。

 幸い、最近は西戸たちからの呼び出しもなかった。受験でそれどころではないのだろう。

 哲司は何を着ていくか何日も考えた。彼女たちのライブのレポを、舐めるように読んだ。

 熱に浮かされたような半月だった。

「はい。またなんか雑誌来てる」

 ぼうっと音楽を聞いていて、姉が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。哲司は郵便を受け取り、無言でヘッドホンを耳に戻す。

「いい加減、アイドルじゃなくて現実を見なよね」

 地元で短大に通っている姉は、部屋に貼られたポスターを一瞥すると、すぐに部屋を出て行った。あんたのしみったれた現実より、彼女たちの世界のほうがよっぽどいい。

 もうすぐ会える。

 sorのことだって、今なら抱きしめてやれそうだった。

 

                ・

 

 本当に指折り、その日を哲司は待ち続けた。

 ぎりぎりにしか着けないと伝えた以上、あまり早くに行くわけにはいかない。だが、電車を間違えたり事故に遭ったりするのが嫌で、哲司は結局、一時間以上も前から待ち合わせの駅についていた。

 よく晴れた日だった。空がすこんと高くて、夏を過ぎた空気は涼しい。

 家を出た時から、心臓のどきどきが止まらなかった。

 彼女たちに会うのももちろんだが、sorに会うのも緊張する。直接会ったらこんな子どもかと幻滅されるかもしれない。そうしたらもう、あんなに親しくやり取りもできなくなるかもしれない。

 sorはきっとおしゃれで頭のいい人で、学校にも友人がたくさんいるのだろう。すらっと背が高くて、賢くて、穏やかな話し方をするに違いない。

 彼は、何分前に来るだろうか。約束の十分前には着いていそうだ。

 もうすぐCelestialに会える。そしてsorにも。今日は俺の運命の日かもしれない。コンビニで雑誌を立ち読みしていても、何も頭に入ってこなかった。だから、約束の時間の十五分前に、哲司は駅に戻った。

 最初、自分は勘違いをしたのだろうかと思った。

 こざっぱりした身なりの、細身の男が約束した階段のあたりに立っていた。遠目に見た時、きっと彼がsorだろうと思った。

 だが、近づいて哲司は思わず足を止めた。

 そこにいたのは、西戸だった。

 哲司は気付かれないようにすぐにターンした。さっきとは違う緊張で心臓がばくばくいっている。何か西戸にばれるようなことをしただろうか? こっそり携帯を盗み見られたとか? アイドルを好きなことや、twitterで書いた内容を、学校中に広められるのだろうか。

 いや、と哲司は考えなおす。西戸が知っているはずはない。

 たまたま西戸もあそこで待ち合わせでもしているのだろう。

 でも、sorと待ち合わせしたところを見られたら、何か悪いうわさでもされるかもしれない。sorが早く来て欲しいけれど、来て欲しくない。

 そうだ、改札から出てくるところを西戸より早く見つけて、反対側から出ればいい。

 “駅を出て右の、階段上のところに立ってます”

 哲司は改札前まで戻ってから、sorのメッセージを読み返した。急がないとライブは始まってしまう。ぎりぎりの時間に待ち合わせたことを、哲司は悔やんだ。

 電車が一本駅に停まったようで、人が流れ出てくる。だが、sorらしき男は現れなかった。

 哲司はだんだん冷静になってきた。

 騙されたのかもしれない。sorはもともとチケットなんて持っていなかったのかもしれない。オークションに出したら何万という値段がついただろうし、見ず知らずの男にくれてやる道理はない。

 哲司は震える指でメッセージを打った。

 “もう着きましたか? 何か、目印になるようなもの持ってますか”

 それでもまだ、sorのことを信じたかった。きっと、人身事故か何かで足止めを食らっているのだろう。連絡がないのは、その場所で電波が入らないからだ。哲司は送信ボタンを押しながらそう思った。

 携帯電話が振動する。

 “前回のライブグッズのトートバッグを持ってます”

 西戸の肩にあった、幌布製のバッグが脳裏に浮かぶ。

 体の中が、煮えるように熱くなり、それからさあっと体温が下がっていった。似ているだけの、違うバッグかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。

 足が震え出して、思わず壁に手をついた。

 そんなことはありえない。sorは高校生だったはずだ。……だけどネット上のプロフィールなんていくらでも偽れる。

 西戸がクラスで音楽を聞いているところは見たことがない。アイドルなんて好きそうには見えない。そもそもあそこにいるのはよく似た別人じゃないだろうか。哲司は何度も目を凝らした。

 君に会いたい

 死ね

 俺も毎日死にたいと思ってる

 ゴミが息してんじゃねぇよ

 俺は君を好きになってしまった

 そこの便器舐めたら許してやるよ

 哲司をいじめるときの暴君のような姿でも、生徒会長をしているときの凛とした姿でもない。そこに立っていたのは、ただの小柄な中校生だった。

 どこにでもいそうな、平凡な子どもだった。

 ぐらりと足元が揺れた気がした。

  

               ・

 

「誰か、待ってんの?」 

「……あ?」

 西戸の目が哲司を捉えて、少し驚くような表情を形作る。

「お前、なんでこんなとこいんだよ」

「それはこっちのせりふだ」

 哲司の足は震えていた。声を出すのもやっとだった。

「どうして、ここにいるんだよ」

 西戸は携帯に目を向けたまま、答えない。その肩から下がっているバッグには、さりげなく前回のツアーロゴが刻印されている。

「何言ってんだ、消えろ」

 西戸はまだ気づいていない。

「……どうして」

 哲司は彼のことをなんでも知っているのに。兄が音大に通っていることも、父親が満点を取れなかった時になんて言うかも。ゲイだということも、初恋が家庭教師の大学生だったことも、なんだって知っているのに。

 西戸はそわそわと携帯電話の画面を眺めていた。何かメッセージを打つような動作をする。

 哲司のポケットの中の携帯電話が小さく震える。身体の奥まで鈍く震えた気がした。

「ああ、始まっちまう」 

 西戸が小さく焦ったようにつぶやく。それから、まだ目の前に立っている哲司にたった今気づいたという様子で、心底軽蔑したような、哲司が聞き慣れた声で言った。

「消えろつってんだろ」

 哲司はポケットから携帯電話を取り出す。もし、何も表示されていなかったらと一瞬考える。そうだったら、自分は嬉しいのだろうか。悲しいのだろうか。

 ――どうして。

 新着メッセージが一件。

 ――どうしてあんたなんだ。

「“遅れそうですか? どのくらいかかりますか?”」

 哲司はそれを読上げる。

 西戸はその意味をすぐには理解できていないようだった。その目が見開かれるのとほとんど同時に、哲司は発作的に腕を突き出した。

「え……?」

 西戸の身体が階段を転がり落ちていく。目の前にまだ、目を見開いた西戸がいるような錯覚があった。そこには最新型の携帯電話が落ちているだけだった。

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 自分が叫んでいることに、哲司はしばらく気がつかなかった。